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第百二十四話、多賀谷城(茨城県下妻市)
ここは言わずと知れた(知れません)多賀谷重経公の居城です。(これでも一番有名かと思われる城主様です)
多賀谷氏とはもともと埼玉県にあった騎西庄の多賀谷郷の地頭だった一族なのですが、鎌倉公方足利氏満(2代目:3代目の満兼か?)のときに起った小山義政の乱で義政が敗北したとき、その所領だった多賀谷郷が結城氏に恩賞として与えられた事がありました。
このとき、多賀谷氏は結城氏の被官となったのです。
またその後、鎌倉公方足利持氏(4代目)のとき、永享の乱がおこり持氏とその子義久が敗死するのですが、他にもいた子ら(春王丸・安王丸)が結城氏を頼ると結城合戦が勃発します。
しかし衆寡敵せず、結城家は落城の憂き目を見る事になるのですが、そのとき、結城氏の家臣だった多賀谷氏家は主人である結城氏朝の末子である後の成朝を抱いて脱出し、常陸佐竹家を頼ったと言われております。
また、春王丸・安王丸が京で首を落とされると、その兄弟も探し出して殺すように時の将軍足利義教が命令を下します。
ですがこの時、籤引き将軍義教の強権政治に耐えかねた家臣・赤松満佑が将軍を暗殺する事件が起こりました。(嘉吉の乱)
これで運良く死罪をまぬがれた持氏の末子・万寿王丸(永寿王丸)、後の鎌倉公方5代目、古河公方初代、足利成氏がしばらくすると鎌倉公方に就任。
その就任を機に、結城合戦から不遇であった結城氏・その家臣である多賀谷氏が重用されるようになり、結城家の再興、および鎌倉公方御家人として重要な地位に返り咲く事ができました。
そこで再び内乱勃発。享徳の乱の発生でございます。
結果、成氏の命令で多賀谷高経が上杉憲忠を襲撃、殺害に成功。この功で常陸下妻三十三郷を所領として宛がわれることとなりました。
このとき既に下妻地方には小山氏系下妻氏の居城だった大宝城の敷地がありましたが、下妻を押さえるには地理的に不便であることを理由に、現在の下妻城、別名多賀谷城を築城する事になるのです。
そこからは拙作「謀略(なろうに移転しました)」を読んで頂けると…。
なんちって。
今現在はほとんど城跡と呼べるものはありませんが、戦国当時、主家である結城氏を圧倒するまでに成長した地方の戦国大名多賀谷氏を思い浮かべながら城址公園を散策されるのも宜しいかと思われますよ。
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