第1章

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「わたしは、樹になるの」 真面目な顔をして言う彼女に、夏の暑さでおかしくなったのかと思った。 しかし、彼女はそんな僕の心を見透かしたように笑った。 ぼんやりしたような、不思議な笑顔。 僕の嫁は、こんな笑い方をしただろうか。 これは、誰? 夜になって、二人で眠りについて。 いつも通りの朝がきて。 彼女は今までと変わらない彼女で。 僕の大好きなえみのままで。 あぁ、昨日のことは夢だったのだ、と安堵した。 それから何日も、今まで通りの毎日を繰り返して、 いつしか暑さは和らいでいた。 そして、暑さと同じように彼女の食欲は低下していった。 けれど水だけは妙にたくさん飲むから、流石に心配になってきた頃。 「最近ね、わかるの。自分の身体がどんどん硬くなってきて、渇いてること」 彼女は、溌剌とした彼女のまま、悲しそうにそう言った。 あぁ、夢は終わってなかったんだ。 なんて、漠然と思った。 「ねぇ…怖い……」 彼女は涙を零した。 彼女は震えていて。 僕は彼女をそっと抱きしめることしかできなかった。 暖かい涙。 柔らかい髪。 「えみ、大好きだよ」 えみの身体。 人間の身体。 それから、また何日も繰り返した。 抱きしめる彼女の身体は、確実に硬くなっていく。 そして、そんな間に彼女は仕事を辞めた。 迷惑をかける前に、きっぱりやり切れるうちに、と。 変わらない彼女が、ひどく愛おしい。 こんな夢、早く覚めればいいのに。 そう思って、もう何日だっけ。 ある日、目を覚ますと隣にいたはずの彼女がいなかった。 靴はあるのに、台所にも、他の部屋にも、洗面所にも、風呂にも、トイレにも。 彼女はいなかった。 ハッとして小さな庭に出る。 無かったはずの小さな樹が、そこには立っていた。 小さいながらも、立派な樹だった。 紛れもなく、彼女だった。 静かに佇む、えみだった。 触っても、それはただの樹で。 「えみ、えみっ、えみ、えみ、えみっ」 僕はただ、狂ったように彼女の名前を呼び続けた。 長い夢を見ている。 彼女が樹になってしまった夢。 目覚めることなく、一年が経った。 「えみ、今日はいい天気だね」 これは夢だ。 これは夢だ。 これは夢だ。
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