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10年ほど前、私はおんぼろアパートの1室を借りて暮らしていた。
かび臭い和室、錆び付いた水道、ぬるすぎるシャワー。
何しろ貧乏大学生で、実家からのわずかな仕送りとバイト代では贅沢はできなかった。
睡眠時間を削り、食費を削ってなんとか生活していた。
そんな私の1番の楽しみは、毎週土曜日の銭湯通いだった。
私が通う深夜は人が少ない。来ていてもせいぜい2、3人で、私ひとりだけということもザラではなかった。
確か、4月の初め頃のことだったと思う。
その日女湯には私ひとりきりで、私はのんきに鼻歌を歌いながら湯船に浸かっていた。
菜の花畑に入り日薄れ
見渡す山の端霞深し
と、そこに誰かの声が重なってきた。
春風そよ吹く空を見れば
夕月明かりてにおい淡し
どうやら、隣の男湯に人が来たらしかった。
驚きはしたものの恐怖感はなく、なんて素敵な声なんだろうと聞き惚れさえした。
その日から、時折顔も知らぬ男性と、壁越しに歌を歌うようになった。
朧月夜、花、小さな木の実、赤とんぼ
数々の名曲を歌ううちに、私は顔も知らないその男性に深い親しみを覚え始めていた。
ある土曜日、風呂上がりの牛乳を飲んでいたときだった。
「やぁ、こんばんは」
背後から聞き覚えのある声がした。
はっとして振り返ると、30代前半くらいだろうか、優しい面立ちをした細身の男性が私に微笑みかけていた。
「こんばんは」
何度も一緒に歌っているにも関わらず、こうして挨拶することは初めてで、戸惑った私は手に持ったままの空の牛乳瓶を弄んだ。
それからの成り行きはあまりに早くて私は今でも半信半疑でいる。
全てがうまく行ったわけではないが、私たちはおよそ2年半交際し、私の大学卒業後すぐに結婚した。
一緒に暮らすようになってからは、お互い恥ずかしくて二人で歌うということはなくなったが、時折浴室から聞こえてくる夫の上機嫌な鼻歌を私は楽しく聞いている。
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