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宿を出てルファが予測したその場所へ向かうにつれ、風の流れが変わり、空の色が変化していくという現象が起きていた。
生暖かい風が吹き始めると、風はそれまで穏やかに晴れ渡っていた空に雲を運んできた。
箒で掃いた跡のような帯状の雲が短いものから長いものまで、流れるように移動していた。
日差しはその都度遮られてはまた光を地上にそそぐという繰り返しで。
完全に遮られることはないが。
湿った風はきっと雨を運んでくる。
アルザークはそう予感した。
「この辺で様子を見てもいいですか?」
小高い丘へと続く木立の中でルファが馬から降りて言った。
「丘へ上がった方がよく見渡せるんじゃないのか?」
春彩雨という奇現象の範囲まではまだ事例も少なく、辞典にも詳細は載っていないのだとルファから聞いていたこともあり、単純に広い場所に出た方がいいのではと思い口にしたのだが。
ルファからの返答は意外なものだった。
「風が止んでます。───でもほら、アルザークさん、丘の方を見てください」
木立の向こうに目を向けて、アルザークはハッとした。
「丘ではあんなに風が吹いてます」
ルファの言う通り、丘に生える草木が風で揺れているのが見えた。
「それなのにここは……ここだけ風が渡っていません」
「……そうだな」
ここには風がない。風の音も聞こえない。
丘の上のように風が吹いていれば周りの木々も騒めくはず。
なのに辺りは静寂に包まれていた。
「もしかしたらこれは奇現象が……春彩雨が起こる前触れかもしれません」
「ルファ!あの空見て!」
ルファの肩の上でココアが叫んだ。
見上げれば流れていた雲の動きが止まっていた。
太陽は遮られていたが、雲はあちこちに隙間を作り、そこからは青空が見え隠れしていた。
光と影が交錯する風のない木立の中で。
しばらく空を見上げていたアルザークの頬を何かが掠めた。
それから続けてぽつりぽつりと。
天から降り下りる雨を感じた。
それはとてもやわらかく降りそそぐ雨で。
翡翠色に輝いていた。
これが春彩雨……。
「霧雨のようだな」
「あ!見てください、アルザークさん!丘の上では降っていません」
視線を向けると丘では風が吹いているだけだった。
「……たぶん、降っているのは今この場所だけかと……。春彩雨の範囲はとても狭いということなのかな……」
ルファは歩き出し、日陰になっている場所で立ち止まった。
そして驚いたようにアルザークを見つめて言った。
「日陰では降ってないです! ……雲の隙間の晴れ間から降ってるの……? 向こうはどうかしら」
呟きながらルファはふらふらと歩き出す。
「おい、どこまで行くつもりだ」
追いかけようと踏み出すと、ルファの言っている意味を実感した。
日陰に入ると水滴を肌に感じることはなかった。
陽だまりの中だけ?とも思ったが、どうやら降っているのは最初に彩雨を感じた場所の近辺だけで、あまり離れてしまうと日差しがあっても彩雨は降っていなかった。
そして彩雨の場所から離れると微風を感じた。
「雲の隙間があんなにあるのに。彩雨があるのは僅かな範囲だけ……。これは風と雲の様子も何か関係していそうですね。解明までは難しいけど……。でも春彩雨に遭遇できてよかった。奇録に記せますから」
こうして再び最初の場所───
風のない陽だまりへルファと共に戻ると、春彩雨はまだ続いていた。
「雲が流れだしたら彩雨は止んでしまうかも」
ルファはこう言いながら慌てて鞄の中から蓋のある小瓶を取り出すと、彩雨を集めた。
「どうするんだ?」
「ぁ、えっと……その、確認したいことがあるので……」
ぎこちない答え方がなんとなく気になったが。
瓶に集めてもその色は透明に戻ってしまうというのに。
ルファの表情がとても満足そうだったので、アルザークはそれ以上何も言わず、不思議な春の初雨を眺めた。
そして数分後、ルファが予想した通り、雲が再び流れ出すと同時に翡翠色の雨は上がった。
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