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「父さんなあ、来月から転職することになったんだ」
「なんで?」
姉ちゃんが箸を止めて、ちらりと父さんを見上げる。
「今の職場は少し不景気というか、なんだか潰れそうなんだよなあ。ちょうど大学の先輩がお見舞いに来てくれた時、自分の会社で働かないかって誘ってもらったもんだから」
渡りに船だ、と嬉しそうに話す父さんの隣で頷く母さんは、心なしかいつもより穏やかな顔をしていた。
“秋浜晴一はひと月ほど前、鳴渡湾で入水自殺を図っている”
静永晶悟から聞いた話が、頭の片隅でよみがえる。
「すごい、それってヘッドハンティングじゃん! どんな会社なの?」
姉ちゃんが嬉しそうにはしゃぐ。
わずかに上擦った声に、ぎくりとした。姉ちゃんが泣くのを我慢している時の声だ。
「引き抜きっていうより、拾ってもらったようなもんだけどな。海外から色んな物を輸入する貿易商社なんだ」
でも、そんな娘の異変に気付く様子もなく、父さんたちは話を続ける。
「今の会社より給料も上がるし休みも増えるんだから、有り難い話だよ、本当に」
「…………そうなんだ。良かったね、父さん」
僕もそう言うと、父さんも母さんも露骨にホッとした表情を浮かべた。
「お前たちにも色々心配かけたな。でも、もう大丈夫だよ」
父さんの話が終わると、僕らはどちらからともなく子ども部屋に戻った。
学習机にもたれかかるように腰をかけ、姉ちゃんがぼそりと呟く。
「元気がないのは病気のせいだと思ってたけど、違ったんだよね」
涙が盛り上がり、みるみるうちに目元が真っ赤に染まった。
「お父さんが自殺しようとしたって、本当なのかな」
「分からない。でも……」
仮に本当だったとしても、きっと父さんも母さんも、じいちゃん達だって隠し切ろうとするだろう。
そう言おうとしたのを、とっさに飲み込んだ。
「本人が大丈夫って言うなら、それを信じることしか僕らには出来ないよ」
こくりと頷くと、姉ちゃんはティッシュを箱ごと抱えて二段ベッドにのぼっていった。
しゃくりあげるような嗚咽とぐすぐすと洟をすする音が、狭い子ども部屋に断続的に響く。
各自に傷跡と未消化の謎をいくつか残して、今回の件は一段落を迎えたかのように見えた。
――――――――しかし数か月後、今までの出来事が終わりの始まりに過ぎなかったことを、僕たちは思い知らされることになる。
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