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よく見れば、顔はやつれているが、まだ二十代であろう若い女の人だった。こんな若い女性医師がいたのかと、ネームプレートにちらりと目をやると、名前の上には「研修中」の文字がある。
「……すみません、見苦しいところをお見せして」
壁に取り付けられたペーパーボックスから何枚もペーパータオルを引っ張り出し、口元を拭う。
「そんな、お気になさらないでください。それより、お加減は大丈夫ですか?お顔が真っ青ですけど……」
そう言ってから、余計なお世話かと思ったが、彼女は気を悪くした風もなく「いえ」と呟いた。
「別に、体調不良じゃないんです。解剖で……」
「かいぼう?」
彼女はハッとして口を手で覆った。ただでさえ青い顔が、更に色を失ってゆく。
「……いえ、何でもありません。失礼します」
ぺこりと頭を下げると、まるでこの場から逃げるように、私を通り抜けて廊下へと足早に歩いていった。
「…………?」
首を傾げながらも、ポーチにファンデーションを片付け、お手洗いを後にする。
廊下を歩いていると、カバンの中のスマートフォンが震えだした。画面を覗くと、職場の上司からの着信が入っている。
慌てて携帯に出られる場所は無いかと周囲を見回す。ちょうど廊下の突き当りに、緑色の非常口の表示があるのに気付いた。
急いで駆け込み、切れた電話を着信履歴からかけ直す。
「あ、もしもし。秋浜さん?」
「すみません、出られなくて」
無人の非常階段に思いのほか声が響いた。とっさに口元を片手で覆って声をひそめる。
「どうせ病院だったんでしょ?悪いんだけど、これから会社来れる?」
どうせ、という言葉に引っかかる。悪いとは口先ばかりの、あからさまに人を見下したつっけんどんな口調が勘に障った。
「これから、ですか?」
「そう。パートの今井さん、子どもが熱出して来れなくなっちゃったらしくて」
断るべきか引き受けるべきか悩み、口ごもる。正直、今日くらいは家でゆっくり休みたかった。
その迷いを察したのか、上司は電話越しでも聞こえるくらいに大きなため息をつく。
「秋浜さんさ、旦那さんが倒れて大変なのはわかるんだけどさあ。いつも休んでる分は、少しはカバーしてもらわないとこっちも困るんだけど」
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