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数日後、私を含めた非軍属、現地の方々宛に軍命令が届きました。
『非軍属及ビ 現地土民ハ 8月27日 16:00発ノ定期船ニ乗船シ 速ヤカニ島ヲ退去スベシ。』
その日、私は教え子たちに『ドウシテ?』、『ニッポンジン トモダチ ダト オモッテタ。』等、胸を締め付けられるような言葉を聞きながら桟橋に泊まっている輸送船に乗り組みました。
現地の方々も何もおっしゃいませんでした。
ただ、時折島の方を振り返り・・・島への回顧の念か、それとも自分たちを裏切った日本兵への恨みか・・・涙を流しておりました。
やがて、出港の汽笛が鳴り・・・船が桟橋を離れ始めた時・・・島の方から歌が聞こえました・・・。
『うさぎ追いしかの山・・・』
私達が島の方を見ると、桟橋や海岸を埋め尽くさんばかりの日本兵がどこからともなく現れ、歌と共に、口々に『元気でな!』、『体を大切にしろよ!』等の言葉を叫びながら大きく手を振っていました・・・。
そして、その先頭には・・・一際大きく手を振る・・・あの隊長さんの姿がありました・・・。
現地の方々は、後部甲板に集まり・・・しばらくはじっと、島を見詰めていましたが、やがて泣きながら手を振りかえしていました・・・。
島から聞こえる歌声は・・・島が見えなくなるまで聞こえていた様に私は覚えています。
私の隣にいた御老人が、私の手を握りながら言いました・・・。
「センセイ ワタシタチ ノ タメ タイチョウ サン ワルモノ ナッタ ノデスネ。」
私も零れる涙を拭く事も無く、御老人の手を強く握りしめてただ・・・頷いておりました。
島の守備隊は、4倍以上のアメリカ軍の攻撃を2ヶ月以上に亘って耐え忍び・・・1発の銃弾、一粒の米の補給も無いまま、玉砕しました。
あの隊長さんは、最後に『サクラ サクラ』・・・『守備隊は玉砕せり。』という意味だったと聞いています・・・を、本土に打電させて自決したとの事です。
この島の戦いは、日本軍の死傷者より、アメリカ軍の死傷者の数が上回ったと言う稀有な戦いだったそうです。
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