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『――――――あぁ、良かった』
女の人の声が、近くから降って来た。
驚いて顔を上げれば、屈んだ悠太の顔を低い姿勢で覗きこもうと微笑む若い女の人と目が合った。
『いきなり落ちてきたから怪我をしているのかと思えば、案外平気そうな顔をしているから大丈夫なんでしょうね。ああ、良かった』
白い肌に目立つ黒い瞳と赤い唇でほっと笑ったその女の人は、伸ばされた悠太の手をなでるように触れて、芝の上に立ち上がる。
風が吹き、あの雪の結晶の欠片と同じ淡い赤の花びらが、下から上へと舞い上がった。
空を隠すほど大きく枝を広げた桜の木の下。
同じ柄の着物を着たその女の人は、まっすぐに桜の大木を指さして言う。
『けれど、木登りも大概にしないと、化け桜も手足の枝を折られたらかなわないと明日には大穴を残して逃げてしまうかもしれませんよ――……』
そして。すぅ……。と、霧が晴れるようその女の人の影は、舞い散る桜吹雪の中へと薄れて消えていった。
「…………え」
悠太は後に残された祖父の書斎の風景を見て、何度も瞬きする。
「何だ、いまの」
首を振って辺りを見回すが、そこには床に散らかったノートと、本棚と、机と窓が一つだけある祖父の書斎でしかない。
床に芝も生えていなければ桜の木もない。
あの女の人もいない。
ならば、いま自分は、一体何を見た――?
今しがたの出来事に、悠太は理解が追い付かない。
風が吹いたと思ったのに、悠太は茹だるような暑さにひどく汗をかいていて、顎から滴り落ちた水滴が手の甲に落ちた。
見れば、右手は床に落ちて砕けた赤い雪の結晶に触れたままでいる。
粉々とまではいかないが、一欠片だけ拾い上げると、悠太はまさかと思う。
「これが、割れて。それで、何でか知らない所に変わっていて。それで――女の人が出てきた……?」
パニックに陥りながら一人身振り手振り、自分自身に言い聞かせる。
「そんな馬鹿な……」
けれど。
自問自答は終わらない。
けれど、結晶が砕けた瞬間現れたあの春の風景は、一体何だったと言うのだろう。
自分がこの目で見たあの女の人は、どこから現れたのだと誰が説明しよう。
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