「切なさ」の味

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――「スタート!!」  顧問の先生の合図が空気をビリビリと振動させた。  同時に、右足を力いっぱい前に出す。  ぐんと風を切ったあたしの足は、しっかりと着実に地面を掴む。  跳ねるように蹴り上げると、地面は一瞬だけ柔らかくなって、あたしの後ろに砂を撒き散らした。  あたし今、走ってる。  頭を後ろに引っ張られるような感覚に、そう思う。  走っている間、あたしは何者でもない。  ただ空気に溶けて、ただ前へと進むひとつの塊。  形とか、物質とか、全ての存在を失った、何か。  ゴールラインを切った瞬間にその幻は消えて、あたしはただの汐崎紅花に戻る。  あたしは形を取り戻し、一気に現実へと引き戻される。 「汐崎、最近タイム伸びないな。気合入れろよ。新人戦近いんだぞ?」 「……すみません、頑張ります」  今日は、体が重い。  今日だけじゃない。  最近ずっとだ。  あたしが溶け込むはずの空気が、あたしの足にまとわりつく。  あたしを後ろへ後ろへと引き摺ろうとする。  もう二週間後には、新人戦がある。  三年生が春の中体連で引退して、あたしたち二年にも、やっと出場の機会が回ってきた。  入賞だって狙える可能性がある。  あたしにとっても、大事な大事な試合だ。  気合入れなきゃいけないのなんて、分かってるけど……。 「紅花」
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