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唖然とする俺の目とこっちを見た澁澤さんの目がぶつかった。まだ俺は心の準備が出来てない。ちょっと待て、ちょっと──!
ふいっと視線を逸らすと、隣の男性に何やらヒソヒソと耳打ちを始めた。
多分、俺だと気がついた。
そうだ、車両を移動しよう!
疲れきった脳内がフル回転をする。……だって、まだ……。
偶然とはいえ、こんな不意打ちはいやだ。自分にしては素早い判断だったと思う。でも、同じ車両内で逃げ切れるのか?
全速力で一番後ろの車両へ移動しよう。後を追いかけてこないことを祈ろう。
「……あっ……」
大きな人影だ。OLのお姉さんたちは小さな歓声をあげる。
顔を上げるとつり革を持つ澁澤さんが、驚きで声を発せない俺を見おろしていた。約1ヶ月ぶりの本物の澁澤さんだ。とても懐かしむような、深い眼差しに視線が逸らせない。
改めて思う。光に当たると琥珀色に輝く髪がさらりと落ち、鋭い目元が優しく揺れ動く。俺、こんな雲の上の人とは大げさな例えだけど、手が届かない人が好きなんだ。トクトクと鳴りはじめた胸の疼きが甘いものへと変わる。
ああ、本物の……澁澤さんだと。
「……あの……」
「次の駅で降りよう。アイツらには少し遅れると伝えてある」
アイツら……?
「今日はベテランインテリアコーディネーターのセミナーに参加してたんだ、勉強をしてきた。晩飯を食いに行く話しになってたんだけど」
……けど?
「……降りるだろ」
「×××、次は×××。お降りの方は……」
電車内にアナウンスが流れる。澁澤さんは俺の手を取ると立ち上がらせ、強く引き寄せた。最初の頃と同じだ、離すまいと力を籠めていた。違っていたのは焦っているように見えたこと。
もう逃げられない。
電車が停止し、ドアが開き、一緒にホームへと降りた。
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