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「理解出来るかい?心の底から自由を望めば望むほど、邪魔な何ががある。空が自由とするならば、大地は牢獄なんだよ。そこに住まう僕たちは罪人。だから縛られる」
「.......」
「馬車に乗ろうが汽車に乗ろうが、逃げ場なんてないのさ。けれど、見てごらんよ」
男は夜空を見上げた。
「今日は綺麗な夜空だ。こんな日だけは、僕が縛られているということを忘れられる。お供にいい酒があれば尚よし」
その表情は恍惚としていた。
「君はどう思う?もしかして僕と同じ思考回路の持ち主だったりするのかな?」
「.......何が言いたいの?」
「別に。ただの質問だよ。巷で話題の切り裂きジャックさん」
ここは犯行現場だった。ほんの数分前、この場で殺人が行われた。
その犯人こそが女自身。手に握るナイフから滴る血が何よりの証拠だった。
だが、その場の空気には狂気も混乱も悪意もない。
不気味なほどに静かな沈黙だけだ。人が殺されているにも関わらず。
女は思わぬ来訪者である男を睨んだ。
まるでこの場で殺人が起こることを予知していたような自然体。
死体を見て悲鳴の一つもあげない。動揺すらない。
彼が一体何者なのか、考えるまでもなかった。
(.......油断したわ。まさか酔っ払いのふりをした刑事に付け狙われていたなんて)
目尻まで被せたハンチング帽。襟を立て首もとまで隠した革製のトレンチコートに、左手が隠されている。
一体その下に何を隠しているのか。
可能性は二つ。射殺用の拳銃か、逮捕のための手錠か。どちらにせよ好ましいものではない。
それでも証拠を、証人を消す算段をたてる。手に持つナイフの柄に力を込める。
だが、
「ああ、止めた方がいい。君がしようと考えていることは、実に馬鹿げていることだ。つい先ほどの行為に比べれば、些かにマシだけどね」
肌をさす冷たい空気よりも突き刺さる、凍てついた声。それは女の心を確実に震わせた。
男は死体を見下ろす。
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