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少女は草花が好きであった。
暇があれば街のフラワーショップへ、そして街の近くにある丘の花畑へ足を運んでいた。お陰でフラワーショップの店員とはとても仲良しになり、草花に関する知識も相当のものになっていた。
丘の花畑でも出会いはあったが、彼女の記憶に靄がかかっており、思い出すことが出来なかった。
あそこで出会った人は一体誰だっただろうか。少女は目の前にある奇妙な紅の薔薇を見詰めながら考えるが、思い出そうとすると吐き気を催し気分が悪くなる一方。それが暫く続いても答えが出ることはなかった。
この広い空間の先にはもう何もない。薔薇の周りに一定の距離を保って木々や岩が此処に留まれと言わんばかりに彼女の精神を圧迫しているのみ。
……一歩前に出る。
奇妙な薔薇に彼女は近付いた。たった一歩だけで、その紅い薔薇の存在感は何倍にも膨れ上がったように感じられ、少女は後退りしてしまいそうになる。しかし、その後退りさえも許されない。
薔薇に逆らうことが出来なかったのだ。往くな。留まれ。こちらに来い。そう言われているような気がしてならず、彼女の耳よりも奥の聴覚にその言葉は間違いなく届いていたのだ。
何故だろう。それが彼女には心地の良いものに感じられた。奇妙で悍ましい、鳴っていないはずの声が響く耳の奥で、少女はただ安堵と多少の快楽で満たされていた。
やがて彼女は"それ"を当然のように受け入れるようになる。傍から見れば震え上がるほどの狂気に満ちた光景であったが、不幸にもそれに気付ける人間は存在し得なかった。
更に一歩、少女は薔薇に近付く。まるで誘惑されるかのように頬を火照らせ、辿々しい足取りで確実に傍に寄っていった。
薔薇が足元まで来ると、少女はそこにしゃがみこむ。少女の瞳は薔薇に近付くにつれて虚ろになり、やがて光を失った。
「そうなんだ。今、少し元気が無いんだね」
少女は唐突にそう口にした。小さな声であったが、迷いも不安もない声。しかしその声は、既に生きているものとは思えないほど凍える"音"であった。意思の無い絡繰り人形と同等であった。
「お水が欲しいの? ……分かった。取ってくるね」
無論、少女の他に声を発するものはいない。
少女を喰い尽くそうとするこの悍ましい灼熱色の薔薇が、少女に語り掛ける振りをしているのだ。人間の真似事をし、人間を陥れようとしているのだ。
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