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「おかえり、僕の元に」
そんなことを思っていると、案の定彼奴からの声がした。
「君の名前は確か……」
僕は彼奴の名前を忘れていたらしく、記憶の中を漁っていた。
「『暗闇』……だったね」
「うん……」
少々淋しそうに返ってきた肯定の言葉を聞いて、僕は彼奴の名前『暗闇』を泥を啜るように嚥下した。
「……忘れてなんかいないよ」
『暗闇』を慰めるように僕がそう言ったとき、遂に白熱灯の輝きが静かに失せた。辺りは彼奴の名前に似た暗闇に包まれる。
「また会えて嬉しい」
甘えたような『暗闇』の声。久しくここに来てなかったから、彼奴も遊びたいのだろう。
ふと気がつくと、僕が寝転がっていた何かの面積が明らかに狭くなっていた。ここを満たす酸っぱい胃液が、その何かを確実に溶かしているのだ。
やはり、ここは『胃の中』。僕も全て溶かされるのだろう。
「暫く居座って構わないからね」
「……うん」
僕は願っているようにも聞こえる彼奴の言葉に頷いた。
「……帰ったって、ろくでもない明日が手招きしているだけだ」
吐き捨てるように僕は自嘲する。帰るなららこの胃に満たされた海に沈む方がいい。
「見ろよ」
僕は気だるい体を動かして自分の右手を空中に翳した。
白熱灯が消えたせいで行き場を無くした羽虫が、右腕全体に群れていた。耳障りな羽音が、二枚舌ばかりを使う僕たちのように聞こえて、僕は軽い目眩に襲われた。
「羽虫が君に似てるって?いや、君はそれ以下さ」
子供のように、『暗闇』は無邪気に僕を堕としてくれる。
「君は、空の井戸だ」
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