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「はい、是非聞かせてください」
「うん、ようく聞いておくんだよ」
このようにして、せんせいのお話は始まった。
「昔、一人の男がいた」
「先の大戦の頃のことだ。戦争に駆り出されていた男は、どうにかして生き延びることができ、終戦とともに故郷へと帰っていった」
「ふるさとには年老いた母がいた。男はこの母と暮らし始め、貧しいながらも何とか生活を営むことができるようになった」
「そんな折、男に不幸が訪れる。男にとって命よりも大切な母親が、病に伏してしまったのだ」
「母の体調は日に日に悪くなる。戦後ともなれば、薬の類いを手に入れることは容易でなく、食料事情もけして良くはなかった」
「日を追うごとに弱りやつれていく母を見て、男は果たしてどう思っただろう」
「ところで、君にひとつ質問をしよう。人殺しは悪かね」
唐突にせんせいから尋ねられた質問に、わたしは戸惑いを隠せなかった。
「人を殺めるのはやはり良くありません。悪であります」
なんとか返答することができ安堵したわたしを、せんせいはじっと見つめた。
「そうだね。たしかに人を殺めるのは悪だろう。話に戻ろうか」
「男はなんとかして母を治してやりたかった。しかし、貧しさと戦後の環境がそれを許さなかった」
「そしてその日はやって来た。もう言葉もろくに話せないほどに衰弱した母が男にこう言うのだ」
「お願い、私を殺してくれないか、と」
「母は毎日苦しんでいた。こんなにも苦しいのなら、いっそ楽になりたかったのだろう」
「男は葛藤した。苦しみから母を開放してやりたい、しかし実の親を、そんなことできるはずがあろうか」
「何度も懇願する母親に一昼夜なやみ抜いた男は、ついに決心した。とうとう母の首に手をかけたのだ」
「母親は最後に、ありがとう、と言葉を残し息絶えた」
「手に残る感触は、男に殺人者の烙印を刻みつけた」
「男はむせび泣き、心の底からの後悔をいつまでも流し続けた」
「罪悪の感にさいなまれた男は、小刀を手にし、自分の腕を深く切りつけた」
「しかし、けっして死ぬことはできなかった」
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