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「これで話は終わりだ。ではもうひとつ君に聞いてみよう。男は悪かね」
わたしは答えることができなかった。
わたしは人殺しが悪だと答えてしまっている。
ついさっき言い放った自分の回答が、じわりじわりと自らの首を締め上げ、せんせいからの問いかけに応答するのを強く拒ませた。
その間もせんせいは一言も発することなくじっとわたしを見つめた。
「男は、悪ではありません」
間を置いて作り出した答えは、わたしが重たく長い沈黙に敗北した証左だった。
「なるほど。男は悪ではないか。それでは男は善かね」
たたみかけるようなその質問に、わたしはまたしても答えに窮した。
問いの内容とは裏腹なせんせいのにこやかな表情と、初めの質問に対するわたしの答えと後の質問に対する答えとの矛盾を突かない不自然さが、より一層に心をえぐった。
「善でもありません。たしかに男は母を救ったのかもしれませんが、人を殺めるのはしかし良いことではございません」
なんとか乗り切ったように思った。
冷や汗が頬を伝い、膝下へ滴るのを感じた。
「善ではなく悪でもない。それでは男は何かね」
その問いかけに、わたしは一拍置いて返答した。
「それすなわち人であります」
せんせいは、懐から煙草を取り出して、机の上にそっと置いた。
「うん、君らしい答えだ」
せんせいはそう言うと、旅館に備え付けのテレビの電源を入れた。
―今日午後、〇〇通りでの連続通り魔の容疑者が逮捕されました。犯人と見られる男は取り調べに対し、誰でもいいから殺してやりたかった、と供述しているとのことです―
ブラウン管を通して聞こえてきたのは、人の命を粗末に扱った、今ではありふれて伝えられるひとつの事件の終わりだった。
またしても訪れた沈黙からわたしを救い出すには、テレビから漏れる音だけでは心許なかった。
「せんせい、おそらくその男の心は今では報われていますよね」
絶えきれずわたしはせんせいに問いかけた。
どうにかしてこの間を持たせようとしたのだろうと思う。
「そうかもしれない。ただ、男は今でも苦しんでいる」
そう言って煙草をくゆらせたせんせいの右腕に大きな古傷を目にしたが、わたしはもう何も言わなかった。
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