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長くて繊細な指先が、濡れた頬を優しく拭っていく。
「梓……」
耳元で、静かなテノールが甘い囁きを落とす。
だめだ。
だめ。
流されたら、だめ。
そんな微かな抵抗は、力強い腕に引き寄せられ、その懐に抱え込まれて、
あまりにも脆く崩れさった。
真摯な黒い瞳に、視線を絡め取られて。
躊躇うように、そっと触れた唇が、徐々に熱を帯びて深みにはまっていく。
触れたいと、望んでいたのは、たぶん私の方。
なのに、触れてしまえば、否が応でも気づかされてしまう、変えようがない残酷な現実。
何もかも捨て去って、溺れてしまえたらどんなに楽だろう。
でも、どう足掻いたところで、私は私以外の人間にはなれない。
不器用なのも、頑ななのも、全部私と言う人間の変えようがない本質。
だから。
その腕の戒めが緩んだ瞬間、私は、スルリと抜け出してエレベーターの隅に背を寄せた。
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