第1楽章 幻想即興曲

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そういえば、今日は仕事が入っていたことを思い出す。 絵の仕事とは別の、生活するために欠かせない「仕事」。  美術の専門学校の卒業制作展覧会で、当時から名の知れた美術商だった有村からスカウトされ、そこの専属作家となってから三年目。 銀座や表参道で度々開催される展示会に自作品を展示してもらってはいるが、まだ一度も売れたことはない。 買い手のいない作家なんて、作家とは呼べないだろうから、有村から絵の仕事とは別に斡旋されるこの仕事こそが私の本当の仕事というのかもしれない。 でも、私にとってはお金にならない絵の方が何倍も大事で、絵を描くために「あの仕事」をしているのだから優先順位は絵の方が格段に高い。  私は床に寝転がりながら、マルボロを一本咥えた。 ライターで火をつけ、煙を燻らし、私好みの味になったところで深く吸い込む。 そして、ゆっくりと吐き出した。  2、3回煙を肺に入れたところで、ようやく着信相手に電話を掛け直した。 ワンコールで相手が出る。 私からの電話を今か今かと電話を握りしめ待っていたかのような速さだった。 「杏樹(あんじゅ)、今どこだ」  電話主の声には怒りが含まれていた。 「家よ」  私は悪びれずに答える。 「やっぱり。まあ、いい。時間帯が変更になったんだ。あとどれくらいで来れるか?」 「そうね~、あと1時間くらいじゃないかしら」 「分かった。先方にそう伝えておく。なるべく早く来るように。場所は分かってるよな?」 「ええ、ガーネットホテルでしょ?」 「そうだ。遅れるなよ」 「努力するわ」 「そうしてくれ」  有村は最後には呆れたような声になっていた。  私は吸いかけの煙草を口に含んで、味わうようにまたゆっくりと吐き出してから灰皿に先端を押し付けた。  まだあと数回は吸えた。努力したわ。  私はすっかり満足して、気怠い身体を抱えながらシャワールームに向かった。 熱いお湯を存分に浴びて、念入りに化粧をして、たっぷり15分かけて髪をブローした。 背中がぱっくり割れたクラレット色のイブニングドレスを着て、黒い毛皮のコートを羽織った。 そして、先日買ったばかりの高級ブランドのパーティバッグを持ち、華奢なピンヒールに爪先を入れる。  時計を見ると、電話を切ってからもう1時間経っていた。 「努力はしたわ」  一人呟いて家を出た。
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