20人が本棚に入れています
本棚に追加
「……なに無視してくれてんの?千夏」
俺が声をかけると、千夏は目を丸くして俺を見る。
「…本気で忘れた?千夏が事故で記憶喪失になったって噂は聞いたけど…。本気?」
俺は千夏に顔を近づけて聞いて、千夏は俺を避けるように後ろに体をひく。
本気の本気らしい。
カケラも覚えていないらしい。
「なに、それ?ケンカしたから怒ってるのかと思っていたのに…、本気で俺のこと忘れたのかよ?千夏っ?」
ケンカなんてしてないけど。
「し、知りませんっ。誰?ですか?」
ケンカに反応することなく言いやがった。
俺はつくりあげる嘘を考えながら、席に深く座り直す。
別の記憶を千夏に与えるつもりだ。
マスコット扱いじゃないなら…彼女?
「そんな反応、見たことないし。……篠山千春、20才、独身です。出会いからやり直す?前は千夏の彼氏やってたけど」
自己紹介しつつ、なんて言ってみた。
千夏は嘘だとも言わなかった。
本気の本気で記憶がないらしい。
その答えを聞く間もないまま、会場が暗くなる。
大きな音が流れてきて、客は立ち上がり、俺やメンバーの名前を叫ぶ。
ライブ開始だ。
千夏がくるのが遅すぎた。
「…もう始めるのか。5分待ってって言ったのに。…あとで楽屋こいよ」
俺はまわりの声にかき消されないように千夏の耳に口を近づけて。
バックパスを千夏に持たせた。
ステージを隠していた幕は落ちて、俺は柵を越えてステージに駆け上がる。
最高のショーになるように、千夏に見せつけるように、くたばりそうになるくらいの声をあげる。
俺の声に客は反応を返す。
ライブは最高に盛り上がった。
このツアーの中で一番の出来だった。
千夏の目は俺を見ていた。
俺も何度も千夏を見ていた。
何度だって俺に惚れればいい。
俺だけ見ていればいい。
やり直す。
出会いから。
ライブが終わると、俺は着替えることもないまま、走って千夏を捕まえにいった。
千夏は逃げるように帰ろうとしていて、捕獲して、俺がファンに捕獲される前に千夏を俺の車に乗せた。
…今まで車に乗せたこともなかった。
乗りたいと何度も言っていたけど。
記憶がなくなった今更になって、千夏の望みを叶えてやってる気がする。
最初のコメントを投稿しよう!