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(何かが来る……)  背後に得体の知れない気配を感じて、史乃は振り返った。 あの忌まわしい事件があってから、史乃は背中に何かを感じると、異様な恐怖を覚えるようになっている。が、そこには龍虎を描いた屏風が立っているだけだ。 (気のせいだわ。後ろから誰も、来る筈ないのに)  史乃は溜息をついた。正面に向き直ってコップの水に口をつけた史乃の背後で、また気配があった。  (えっ……)  再度振り向いた史乃の耳に、何かが飛び込んできた。  (足音が聞こえる……遠くから)  やがて足音はだんだんと近くなり、階段を登ってくるようだ。そしてそれは、廊下をけたたましく駆ける音に変わった。襖がやおら開き、一人の若者が現れる。 「何事だ」 上座から、野太い声が叫んだ。千藤彰次郎である。  千藤は、自由民権派の政党、自由党の総理・板垣退助の側近中の側近だ。時として板垣と同等の権威を振るう彼を、党員達は「影の総理」と呼んでいた。  「大変です」 自由党本部の一室で卓を囲んでいたのは、史乃、千藤のほか、中島という若い党員の三人である。  六つの瞳が、一斉に闖入者に注がれた。 若い男は、青ざめた頬の下で、唇を震わせている。 「北村君。何が大変だって」 息を上げる男に、中島が声をかけた。 「明日」 北村と呼ばれた男は、声を絞り出す。 「あいつがここに来る。あの相原が」  「相原?」  中島は赤い顔を蒼白に変えて、 立ち上がった。  「相原って……。 十年前、板垣総理を刺した、あの相原尚文のことか」  「そうだ。その相原だよ。正確には十三年前だが」  なおも息が上がっている北村に、史乃が水を差し出す。 北村は史乃からグラスを奪い取ると、一息に飲み干した。 「本物なのか」  「ああ。昨日ひょっこり、党幹部の河野広中さんの所に現れたらしい」  「まさか。だってあいつ、死んだって言われてたのに」  口元に垂れた雫を袖で拭いながら、北村が応じる。 「確かにな。あいつ、板垣さんを襲った直後に捕えられて……。その後、帝国憲法発布の恩赦で出獄し……板垣さんに謝罪に来たよな。あれから、六年になるか」  「そうだ。それから間もなく、北海道の開拓事業をするんだと言って船に乗って……その船上で消えちまった」
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