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千藤は盃に残っていた酒を飲み干すと、盃を差し出した。
「そう、確かに危険だ。 若い連中に言ったのとは、意味が違うがね」
「違う意味で、ですか」
史乃が酒を注いでやると、千藤は盃を史乃に差し出した。
「まあ、あんたも呑め」
千藤の盃では抵抗があるが、史乃は否とは言えない。史乃は一介の女中に過ぎないが、相手は自由党の権力者なのだ。こうした強要を巧みにかわす術を、史乃は持っていない。
「あんた、十三年前の事件のことは知っているかね」
仕方なく盃に口をつけ、史乃が答える。
「ええ。私が、ここに来る少し前でした。明治十五年の四月、岐阜に遊説にいらした板垣総理が、相原さんに襲われて軽傷を負った。さっき、若い人達が言っていた通りですよね」
「そう。当時」
千藤は咳払いをした。
「当時、我が党は結党して半年程たったばかり。我が党が立ち行けるかどうか、まだ定かではなかった」
かつての記憶を辿るように、千藤は巨体に似合わぬ小ぶりな眼を、更に細くした。
「が、あの事件を境に我が党は変わった。民衆から絶大な支持を得るようになった」
「それは……あれですね。板垣総理の名文句」
史乃は膝を叩いた。
「『板垣死すとも自由は死せず』ですね」
史乃が言うと、千藤は大きく頷いた。
「そう。『板垣死すとも自由は死せず』だ。板垣さんが相原に刺された時言い放ったその名文句が世に知れ渡り、同情も手伝って板垣さんは国民的英雄になった。そして板垣さんが総理を務める我が党も、国民的支持を得るようになった」
史乃は首を捻った。
「でも、なぜ今、相原さんが恐ろしいんです? 変な話ですけど、結果的には相原さんのお陰で自由党は躍進できた訳でしょう。相原さんを恐れる理由など、ないのでは」
「違う。それは違うな」
千藤は首を振った。
「奴がやって来る目的は……」
次第に千藤の語調が、鋭くなってゆく。
史乃は生唾を呑み込んだ。
「目的、は?」
「脅しだよ」
「……」
絶句する史乃をよそに、千藤は続けた。
「相原が板垣さんを襲ったのは、単独犯じゃない。恐らく、黒幕がいたんだ」
「黒幕が?」
史乃は顎に手を当てた。
「私ここへ来てから、錦絵新聞の記事を読みましたけど。事件当時、黒幕がいなかったのか周到な捜査が行われた結果、結局単独犯ってことになったのでは?」
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