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千藤は顔の前で、手を振った。
「警察の捜査など、どうにでもできる。圧力次第でな」
「圧力次第?」
「そう。恐らく政府の高官の中に、黒幕がいる」
千藤は深く息をついた。
「十三年前、明治十五年の時点では、薩長藩閥政府にとって板垣さんと自由党は、取り除くべき危険分子だった。ことごとく政府の方針に反対する自由党の領袖を消してしまいたいと政府首脳が思ったとしても、それは自然の成行きだっただろう」
言いながら千藤は、黒目を光らせた。
「が」
千藤は拳を握った。
「今は状況が変わった。政府にとって我が党は、最早無視できない存在だ。否、必要といってもいい。取り除くのが不可能な今、政府に取込む方が遥かに得策だ」
千藤は懐から葉巻を取り出し、火を点けた。
「我が党としても、板垣さんを政府に送り込むのが得策だ。悪戯な対立は労力の無駄遣いだからな」
「確かに……」
史乃は思った。
(よくは、知らないけれど)
明治十四年の結党以来、自由党は薩長藩閥政府と鋭く対立して来た。政府による厳しい弾圧と自由党急進派の過激化の余り、自由党が解散に追い込まれたこともある。それが現在、両者で合同の政府を作ろうとしているのだ。
(余程の駆引きと、妥協があったんだわ)
史乃の思考を遮るかのように、千藤は紫煙を吐き出した。
「が、ここでもしも、政府高官に黒幕がいたことが発覚したらどうなる」
「あ」
史乃は眼を見開いた。
「朝野を揺るがす一大醜聞となって、政府と自由党の関係は粉々になるでしょうね」
千藤は深く頷いた。
「そう、全ておしまいだ。これから築ける筈だったお互いの関係が、全部崩れ去る。へたをすればこの日本国の行く末に、大きな影響をもたらすかも知れん」
千藤は無造作に、料理皿に灰を落とす。
「相原が板垣さんの前で、黒幕の名を言ってみろ。全てはおじゃんだ」
「全て……」
史乃は俯いた。
「でも、私なんかに何故そんな大事なことをおっしゃるのです?」
千藤はふっと笑い、視線を落とした。
葉巻を皿に押し付け、声を鎮める。
「あんた、以前井上馨公の所で働いていたんだってな」
「えっ……」
「あんたがここへ来た経緯は、大体知ってるよ。あんたここへ来る前に、色々あったんだよな」
史乃は覚えず、血の気が引くのを感じた。軽い酔いが薄ら寒い戦慄へ変わってゆく。
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