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「それは随分昔の……まだ子供の頃の話です。今の私とは、関係ありません」
千藤の細い眼の奥に、陰鬱な光が宿って来ていた。
「関係ない? そいつは、どうかな」
千藤にねめつけられる恐怖と相俟って、史乃の脳裏に忌まわしい記憶がまざまざと蘇った。
(あの頃は本当に、辛かった……)
史乃は、旗本の一人娘である。
父は彰義隊の戦に身を投じ、戦死を遂げた。史乃が二歳の時のことだ。女手一つで幼い史乃を育ててくれた母も、史乃が八歳を迎えた年に他界してしまった。
財産も身寄りもなく、人買いに買われて方々を転々とし、最後に行き着いたのが、井上馨の屋敷であった。
(あの頃は、泣いてばかりいたわ)
井上屋敷では寝る間も殆どなく、牛馬の如く働かされた。広い屋敷内と広壮な庭を掃除するだけでも大変なのに、炊事、洗濯、お風呂の世話など仕事は山をなしていた。
少しでも落ち度があれば先輩の女中に叱られ、顔が腫れ上がる程、殴られた。
無論、報酬は貰えなかった。押入れのような窓のない部屋を住まいとして与えられ、犬猫の餌かと見まごう粗末な食事で、飢えを凌いだ。
やりきれなくなると夜独り密かに裏庭に出、父母のことを想い、忍び泣いた。
(そして私が十五の時、あの事件が……)
「どうした。顔色が悪いぞ」
千藤の一言で、史乃は我に返った。
「いえ。何でも……」
史乃は嫌な思いを振り切るように首を左右に振るが、嫌悪すべき記憶はまだ頭の周りにまとわりついている。
「あんた、板垣さんに恩義を感じてるんだろう」
「それは、勿論……」
千藤に言われるまでもない。史乃にとっては、当り前のことである。
否、史乃が今生きているのは、板垣への恩返しのためと言って良かった。
あの事件があって間もなく、井上屋敷を飛び出した史乃だったが、頼るべき身内もなく、生計を立てるための職もなかった。
僅かに手元に残っていた父母の形見も全て質入れしてお金に換えたが、その金さえも瞬くうちに使い果たした。
旗本の娘という誇りも捨てて、街角の牛鍋屋の裏手に捨てられた残飯を漁ろうとしていた時、声を掛けられた。
板垣退助であった。
板垣は自由党本部に史乃を連れてゆき、暖かな食事と心地よい寝床を与えてくれた。
衰弱していた史乃が体力を回復すると、女中として働くよう薦めてくれた。
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