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「弁当が落ちたら」 その言葉は、濡れた試験管の中で反響して、くぐもりながら日なたの方へ転がり落ちた。 振り向いて見れば、火竹が洗ったばかりの試験管に唇を宛てて、真面目くさった顔をしていた。血色の良い唇が、屈折して見える。 明らかになんらかのリアクションを期待しているらしき表情に気づくが、俺――風見直明はすぐに目線を外し、友人であり部活仲間の土屋から借りたライトノベルのページをめくる。ちょうど挿絵のあるページで、血まみれになった主人公が放電している日本刀を上段に構えている。 いよいよクライマックスに差し掛かるという場面だが、もはやその先を容易に読み進めない。実験室の幅広い机の向こうから、性懲りもなく刺さり続ける視線が、臨場感を古ぼけたメッキのように剥がされていく。 どうやら、なにかしら反応を示してやらないと、この事態は打開できないらしい。縋るような気持ちで目線だけで改めて周囲を確認する。だがもちろん、誰もいない。今、この化学実験室には俺と火竹しかいないのだ。 今度は背後の窓をチラリと見る。六月も末、俺達一年生も大分学校生活に慣れてきて、放課後の廊下のあちこちで中間試験の結果を嘆いたり席替えのクジ運の無さを悔やんだりする声がちらほら聞こえていた。そんな同級生らを尻目に、俺は部室である化学実験室に来てしまった。 それが間違いだったと、いまさらになって激しく後悔する。実験室になど顔を出さずにとっとと帰っておくべきだった。一時間前の自分を殴りたい。 というのも、待っていたのは先輩から言付けを仰せつかった火竹ただ一人だった。そして火竹の口から転がり出た言葉が、きわめて不条理で憂鬱窮まりない活動内容だったのだ。つまり、 「今日あった三年生の実験の後片付けをしておくこと。明日も別のクラスが同じ内容の実験をするらしいから、その準備まですべて完了させといてね~」 そんな不毛な作業が続いて一時間。唯一の味方であるはずの火竹だが、もはやこのミッションに飽きたらしい。 思わずわざとらしいため息が首まで出かかり、そっと押し殺した。このいかんともしがたい状況で火竹にブー垂れられては、それこそどうしようもないというものだ。 やれやれ。本当にコイツは。 「……弁当が落ちたら」 返事をしてやろうと思っていたら、火竹が試験管越しに唇を尖らせながら、再びそのセリフを繰り返してみせた。
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