第1章

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噂には聞いていたが、競馬場には想像以上の人でごった返していた。 生まれてはじめて競馬場にきた河野は、その人の多さに驚きながらも、周りの人の真似をするように、パドックを歩く馬の姿をじっと見つめていた。 河野は、ごく普通の会社員である。 しかし、数日前の些細な失敗をきっかけに、立て続けにミスを連発。上司から、役立たずのレッテルを貼られてしまい、自分に自信を失っていた。 相談できるような相手も特に思いつかず、気晴らしにと家から電車で20分の京都競馬場に足を運んでみることにしたのである。 河野は、とくに馬券を買うこともなく、ただじーっと馬を見つめていた。 昔から動物が好きだったので、馬が歩いているのを、ただ見つめているのも悪くないと思った。 第1Rからずっとパドックだけを見つづけているせいで、河野はすっかり最前列に押し出されていた。 すでに、二つのレースのパドックを見終わり、次は、10月2週目の京都第4R、三歳未勝利戦のパドックである。 周回する馬を見つめながら、河野はある一頭の馬に心を惹かれていた。 ゼッケン1番、ユヴェール。 鹿毛の2歳牡馬。 騎手は、千道小春。 馬体重は482kg。 斤量は55kg。 はじめて競馬を見る河野には、馬の名前と年齢と性別くらいしか頭に入ってこなかったが、なぜかユヴェールという馬に、ただならぬ雰囲気を感じた。 一番人気は、ゼッケン12番のスターダスト。 筋肉質で、他の馬よりも大きく見えた。 それでも河野は、一番人気のスターダストよりも、ユヴェールという馬のほうが良く見えた。 競馬なんか、ただの賭け事だと思っていた。でも、馬を見ているだけで、どういうわけか穏やかな気持ちになれて、上司のことなどどうでもいいと思うようになっていた。 馬に騎手が騎上するのを見ながら、河野はあの馬が、ユヴェールが走っているところを見てみたいと考え、やっとパドックから離れて本馬場のほうへと向きを変えた。
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