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月光
彼女は綺麗な指で鍵盤を叩いている。小さな部屋におもちゃのピアノの音が響いた。静かな夜だった。部屋の電気は点いておらず、満月と揺れるろうそくの灯りだけが彼女を照らしていた。細い指、長い黒髪、真っ直ぐな瞳。僕の見る彼女の全ては完璧なほどに美しかった。誰もがそう感じるだろう、と僕は思った。影がゆらゆらと怪物みたいに彼女を飲み込んでいく。
彼女は手を止めてこちらを見た。そして少し笑った。
流れるピアノの音に乗ったのは、僕には厳しすぎた、甘ったるい世界。モノクロの世界で彼岸花の赤、青い空、踏切の音だけが鮮烈に、記憶に焼きついたのを覚えている。秋晴れの青い青い空に吸い込まれたい。鳥みたいに高く飛べるようなそんな、空の下、僕は未だにもがいている。
どうして誰もがいとも簡単に飛べるのだろう、と。うつくしい羽なんて、誰も持っていないのに。どうして?どうして、僕の羽はちっとも動かないんだ?
ああ、僕の神様。こんなにすぐ側に。今にも手が届きそうなほどに。彼女は笑いながら、鍵盤を叩く。叩く、叩く。長い髪が揺れる。月光に照らされて、青く、青く、青く。
そして僕は気付く。誰もいない部屋、一人座っている、滑稽な僕の姿に。彼女はどこに行ってしまったのだろう?
どうして僕はひとりなのだろう?
僕は鍵盤に手を置いた。
そして、彼岸花の咲く海の底、列車に揺られる夢を見る。
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