視界の外

2/9
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
「視野のアウトコーナー、つまり外角のギリギリに恐怖はあります」 沖月汐香(おきづきしおか)さんは扇状に両手を伸ばしてそういった。 「外角ギリギリ、ですか」  私がそう繰り返すと彼女は頷き、両手を曲げて自分の目を指差す。ここで私は沖月さんが両手を伸ばした理由に気がついた。人間の視野を表現していたのだろう。沖月さんはジェスチャーを交え、話を続ける。 「視野の広さは動物によって様々ですが、人の視野はだいたい200度位らしいです。両目で見える部分は真ん中から100度、それに左右片目で見える50度×2を足して200度です。実際きちんと見えるのは前者だけで、後者はほぼ輪郭しかみえないらしいですけどね。……すいません、お医者さんには仏に念仏ですか?」 「いいえ、専門外の話は同業でも意外と知らないものです。大変興味深いですよ」  私は軽く首を振って笑みを浮かべながら答える。実際全く知らなかった。 「ありがとうございます。それでなぜ、外角ギリギリが恐怖かといいますとね。認識できても、それがなにか理解できないからなんです」 私は彼女の話に頷きながら、会話に支障が出ないよう気をつけながら、こまめにカルテにメモを書き残す。沖月さんは月に二度、私の診療所に通院をしている。精神的な疾患を持った人ではないが、彼女曰く、定期的に「精神的な負担がかかる体験」をするらしい。彼女はそれを乗り越えるため、カウンセリングを受けに来ているのだ。 「確実に何かが横切った。けれど、それがなにかは分からない。それがたとえ可愛い犬だったとしても、それが理解できなければ恐怖の対象になり得ます。その恐怖は時間が経つに連れ、歪んだ妄想を生み出して、雪だるま式に大きくなる」  声に少し震えているように聞こえる。私は一旦中止したほうがいいかと申し出たが、沖月さんはそれを丁重に断った。話したいのだという。  口を開いたかと思うと、少しためらうかのように、沖月さんは口をつぐむ。診察室に静寂が訪れ、ガラス越しに外のセミの鳴き声がかすかに響いた。 「あれは数年前。私が大学一年生の時で、家庭教師のアルバイトをしていた頃のことです」
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!