第二章 二人の男

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 そんな鬼たちのぼやきにおかまいなしに男はしゃべり続ける。 「ある日、満員電車に乗っていた時のことです。あと少しで駅に着くなと思っていたら、電車が急ブレーキをかけたのです。乗っていた私は前方に大きく揺れ、倒れまいと必死でつり革に捕まりましたが、個人の力なんて所詮わずかなもの。後ろから押しかかってくる人々の重圧に耐え切れずに、親指が、小指が一本ずつ離れてゆき、最後にはとうとう頼みの綱の薬指さえも滑り落ち、私の体は前方に投げ出されてしまいました。最後の砦として何のゆかりもない私に全体重を預けていた他の乗客たちも、ダムの決壊による怒涛の水流のごとく、いっせいに電車の床面に向かって倒れていったのです。きゃーという女性の声、冗談はやめてくれという高校生のゆがんだ笑い。山のように折り重なった乗客。その後、線路に人が落ちたので、やむなく急停車をしました、御迷惑をおかけしましたと案内放送がありました。後から新聞で読んだら、飛び降り自殺だったそうです。先程まで一体感を味わっていた乗客たちは、全く赤の他人の顔をして、思い思いに立ち上がり始めました。みんなの犠牲となり床に這いつくばった私は、モップのようにゴミが付いたまま背広の襟を正しました。どうして、服がこんなに汚れるんだ。私の怒りは電鉄会社へと向けられました。それなのに、電車は何事もなかったかのように動き出し、乗客もまたいつものような無感動の顔を装っていました。ただ、私の体の痛みだけが現実のものとして残りました。いつもの駅を降り、いつもの改札口を通り、いつもの会社へ行こうとした時、自分の心にこんなことしていていいのかと疑念が湧いたのです」 「なんや、難しげなこと言うとるで、このおっさん」  そんな茶々にも関わらずしゃべり続ける放浪者。 「心の反応に合わせるかのように、足は会社への道から反対方向に転換し、公園に向かったのです」 「そりゃいかんわ、休むんやったら、会社に連絡せなあかんで。それが社会人の努めや」
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