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 ある日の明け方のことであった。とある池のほとりで、一人の男が虚空を眺めていた。  外周2、3キロほどの池の周りにはくたびれたアスファルトがしいてあり、しかし転落防止の柵のようなものは少なく、茂る樹木が辛うじてその役割を果たしているばかりである。  若い男がこんな時間に、どうしてそんなところに、と思うかもしれない。が、男にはほかの同年代の男女のように、朝から忙しく出かける用事もないのだ。長いこと目に入っていなかった自然だの何だのといったようなものを、もう一度くらいは見ておこうかと、ただなんとなく思い立ち、たまたま自分の住む家から歩いて数分の、それでいて求むるものがすべて揃っていそうなこの場所へ訪れて今に至る。  久しく見ていなかった朝の日の光に多からず心打たれたりもしたが、結局のところ自分には似つかわしくないと木陰に身を隠し、なおも古びた舗装の上を暫く歩いてみたりなどしたが、男のほかには誰もいない。平日の、明け方の、ともなれば、大概の者はこんなところで油を売っている暇などないのであろう。それにしたって年寄りの1人や2人は散歩でもしていそうなものだが、今日に限っては未だ誰も見かける気配がなく、尤も、もとよりなるべく人と会いたくないと思っていた男にとって、その方が都合のよいものであった。代わりに、茂る木々のあいだでひっきりなしに蝉が鳴いている。時折頭上を舞っているらしい烏の鳴き声さえ、蝉どもの大音声にかき消されんばかりだ。普段は不吉な烏の存在も、今このときの男にとっては恋しいもので、それだけに蝉どもの鳴き声はうざったい。そんな風に考えるほどには、センチメンタルだった。  今日はたまたま見えないといえ、休日、それに涼しさの増す季節などになれば、この手ごろな散歩道に訪れる人は増える。暇を余した年寄りが適度な運動にとやって来る割合が多く、一息で踏破してしまうにはやや長めのものであるから、この池の外周には休憩のできる長椅子がいくつか、野ざらしではあるがおかれているのだった。  男は近くにそのうちのひとつを見つけ、枯れ落ちた枝葉や長年の風雨で傷つき汚れたのをできるだけさけるように腰を下ろした。そうしたところでどこもそれなりには汚れているのだったが、柄にもなく些細な清潔さを求めるのは、男のささやかな抵抗だった。
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