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 男はそれから、取り留めのないことばかりぼんやりと考え始めた。いや、考えるというのは思い悩み選択して結論を手繰ろうという行為であるから、思い浮かべた、というだけの方が正確かもしれない。男はただただ、思い浮かべていた。たとえば数ヶ月前、仕事を首になったときのことなどを――。  普段なら、この男もまた同年代の男女たちと同じに忙しく準備を済ませ、仕事へ向かっているはずの、そんな時間だ。しかし男にはもはやその必要がない。さて勤めてゆうに10年は過ぎたろうか。それまで大した趣味も持たず、そこそこにひたむきで、それでいて漠然と――明日もきっと同じような一日が来るのだろうと――仕事ばかりを続けていた男にとって、突然のいとまは如何ともしがたいものであった。ひとしきり憤慨し、抗議し、懇願してみても、決まったことは覆らぬ。起こったことは戻らぬ。日々の大半を失って初めて、男は自分に何も残っていないことに気づいた。僅かの金こそあるが、もとより高給取りでもなく、昨日今日と変わらぬがらんどうの日々を送るうち簡単に尽きてしまうだろう。  そんなことばかり浮かんでは消え浮かんでは消えするうち、怒りとも恨みともつかぬ苛立ちが募りはじめ、行き場のないまま澱みそうなそれをどうにか他の何かに向けようとしたとき、男は自然、その対象を社会へと定めた。自分が今ここまで虚ろなのも、仕事を首になったのも、全ては世の不景気のせいだ、と。  バブルとやらが崩壊したのち、ことあるごとに不景気不景気と叫ばれ続けてもうずいぶんと経った。子供のころに他人事として右から左へ抜けていたものに、まさか20年ほども過ぎた今になって足をとられるとは誰が想像したものか。漸く上向き加減になってきたなどと言え、それまでの長きにわたって苦心し耐え続けてきた企業の中には限界を迎えている所も少なくはなく、男が職を失ったのも、そういった厳しい現実の波に呑まれてのことであった。
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