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隣の部屋は静まり返っている。夫は静かに眠り続けていることだろう。規則正しく穏やかな寝息。これからの私の生活。それだってきっとそんなふうに淡々と続いて行くに違いない。
鏡の中の女にさくらは笑いかける。
でも、そのすぐ後で少しだけ怖くなる。
目の前にいる女がどこの誰か、どんなことをしてきたのか、そんなことの一切が消えてしまい、自分という人間がどこにもいない人のような気がしてくる。
するすると音もなく、その思いは心のそこから這い出してくる。
夜は、深い。
田中昭三は自分の顔を忘れただろうか?
白い球を追いかけて、暗くなるまで、グラウンドを走った彼。
殺人をおかし、整形手術をして、逃げていた彼。
鏡の前の自分の姿がにわかに揺らめいたような気がして、さくらは鏡から
顔を遠ざけた。風が吹き、月が隠れ、一瞬、鏡の向こうの顔が黒く翳った。
どんなに顔が変わっても、過去から逃れることなどできはしない。
それはいつだってあんたの中にあるよ。誰かに、そう言われているような気がする。
さくらはあせる、もしそうなら、いつか私が私だということが、ばれる日がくるだろう。
けれど、もしも、ばれなかったら?
私の記憶が無くなれば、私のことなど誰も知らない。
「私はだあれ」
そう聞くが、鏡の向こうの女は、静かにうすくわらうばかりだった。
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