第1章 お岩

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「伊右衛門様。今夜のお帰りは・・・」 お岩はそこで言葉を切り、身を縮めて俯いてしまった。 夫の帰宅時間を誰何する等、武士の妻女たる者の作法では無い、そう考えた為だ。 「済まぬが、伊藤様に招かれている故、遅くなる。何、毎度の如く、下らぬ酒宴だ。断っても良かったのだが、折角のお誘い、無下にも出来ぬ。」 伊右衛門は事も無気に応えた。 そうする事で、気にする事では無い、と伝えたつもりだ。 が。 「・・・すみません・・・」 岩は未だ、しょんぼりと朝食の膳に目を落としたまま、小さく詫びるばかりだった。 「・・・何を謝る事がある。心を配ってくれての事だろうに。」 しかし。 伊右衛門は。 そこで、”優しく微笑む”と言う表情が、作れない。 伊右衛門の”裏に潜む名前”が、それをさせてくれない。 故に、仏頂面のままの己に気付き、少々慌てた。 これでは、嫌味や皮肉を言っているようにも捉えられ兼ねない。 「い、いや、お岩。今のは、くれぐれも本心からの言葉だ。他意等、無いのだ。」 「・・・そのように仰られては、私が伊右衛門様をいじめてるみたいではありませんか。」 岩は、漸くくすり、と笑った。 「・・・あ、いや・・・」 「私の旦那様が、裏表の無い方である事は、岩が一番良く知っております。」 「・・・」 岩の言葉が、伊右衛門の胸をちくりと刺す。 裡なる暗部が、とぐろを巻く。 暫くは無言で、椀の中身を掻き込んだ。 「・・・行くか。」 朝食を終え、伊右衛門が出仕の為に立ち上がる。 「はい。」 岩も、その見送りに後を追う。 「・・・時に、岩。」 「は?」 「髪(ぐし)が、乱れておるぞ。」 「・・・」 岩は再び俯いてしまう。 結わぬ髪の、垂れて左半分、顔を隠している房。 それを手櫛でなぞる。 「・・・まあ、良いか。」 伊右衛門は”それ”を、全く意に介していない。 が、岩自身が気にしていると言うのなら、無神経な言葉を吐いてしまった、と悔やむ。 「では、参る。」 しかし。 詫びや慰めは、余計に岩を苛む事を知っている故、伊右衛門はそのまま家を出た。 「いってらっしゃいませ。」 楚々と頭を下げる岩が、その面を上げた拍子に。 一瞬だけ、疱瘡が元で爛れた、その半面が露わになった。
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