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「伊右衛門様。今夜のお帰りは・・・」
お岩はそこで言葉を切り、身を縮めて俯いてしまった。
夫の帰宅時間を誰何する等、武士の妻女たる者の作法では無い、そう考えた為だ。
「済まぬが、伊藤様に招かれている故、遅くなる。何、毎度の如く、下らぬ酒宴だ。断っても良かったのだが、折角のお誘い、無下にも出来ぬ。」
伊右衛門は事も無気に応えた。
そうする事で、気にする事では無い、と伝えたつもりだ。
が。
「・・・すみません・・・」
岩は未だ、しょんぼりと朝食の膳に目を落としたまま、小さく詫びるばかりだった。
「・・・何を謝る事がある。心を配ってくれての事だろうに。」
しかし。
伊右衛門は。
そこで、”優しく微笑む”と言う表情が、作れない。
伊右衛門の”裏に潜む名前”が、それをさせてくれない。
故に、仏頂面のままの己に気付き、少々慌てた。
これでは、嫌味や皮肉を言っているようにも捉えられ兼ねない。
「い、いや、お岩。今のは、くれぐれも本心からの言葉だ。他意等、無いのだ。」
「・・・そのように仰られては、私が伊右衛門様をいじめてるみたいではありませんか。」
岩は、漸くくすり、と笑った。
「・・・あ、いや・・・」
「私の旦那様が、裏表の無い方である事は、岩が一番良く知っております。」
「・・・」
岩の言葉が、伊右衛門の胸をちくりと刺す。
裡なる暗部が、とぐろを巻く。
暫くは無言で、椀の中身を掻き込んだ。
「・・・行くか。」
朝食を終え、伊右衛門が出仕の為に立ち上がる。
「はい。」
岩も、その見送りに後を追う。
「・・・時に、岩。」
「は?」
「髪(ぐし)が、乱れておるぞ。」
「・・・」
岩は再び俯いてしまう。
結わぬ髪の、垂れて左半分、顔を隠している房。
それを手櫛でなぞる。
「・・・まあ、良いか。」
伊右衛門は”それ”を、全く意に介していない。
が、岩自身が気にしていると言うのなら、無神経な言葉を吐いてしまった、と悔やむ。
「では、参る。」
しかし。
詫びや慰めは、余計に岩を苛む事を知っている故、伊右衛門はそのまま家を出た。
「いってらっしゃいませ。」
楚々と頭を下げる岩が、その面を上げた拍子に。
一瞬だけ、疱瘡が元で爛れた、その半面が露わになった。
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