桜の下で

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彼がお父さんのところにいくときは出社という形だから、当たり前のようにスーツを着る。 慣れたようにネクタイを結ぶ姿は私には見慣れないもの。 ちょっとかっこいい。 「杏奈、もう出るよ。恭太預ける用意できた?仕事いく用意できた?」 横目にちらちらと彼ばかり見ていて、私の作業はまったくできていない。 声をかけられて、ばたばたと用意する。 朝食の片付け、軽いメイク、恭太の着替え。 時間に追われながら、彼が恭太を車に乗せて。 恭太の荷物も乗せてくれて。 私も家の戸締まりをして助手席に乗せていただく。 恭太を乗せるためのベビーシートは、もう車に備え付けのようになってる。 はずしたりつけたりするのが大変。 彼が運転してくれているから、恭太にこれで遊んでおきなさいと玩具を渡しておとなしくさせておく。 離乳食をぱくぱく食べてくれれば、こんな忙しなく家を出ることもなかったのに…と思うのは、私への言い訳。 ただ彼に見とれていた。 「あー、俺のほう遅刻だ、これ。抜け道、抜け道」 なんて彼は言いながら、私の知らない道をまわって渋滞回避。 私は職場まで彼に送っていただき、彼は今度は実家に恭太を預けにいって、それから出社。 遅刻だ。 「焦って事故らないでくださいね。恭太、お願いします」 「君と家にいたいので事故りたくありません。帰りは迎えにくるよりバスのほうが早いだろうし、バス使って」 「はい。いってらっしゃい」 私は彼を見送るために車から離れようとして、彼に手招きされて。 耳を近づけようとすると、頬にキスをいただいた。 「いってきます」 なんていうキス。 一人、はしゃいでしまいそうになる私がいる。 スーツ姿のかっこいい旦那様にキスとか、新婚みたいだ。 私は思いきり笑顔で手を振って、彼の車を見送る。 「おはようございます、水樹さん。旦那様に送ってもらうなんて、ラブラブすぎません?」 先輩社員もちょうど今きたところといった感じで。 どうやら見られていたようで。 私はえへへっと締まりのない顔で笑う。 「旦那様、癌なんですよね。完治できたんですか?」 そんな何気ないものに、淋しくなって笑顔も小さくなる。 相手に悪気はないだろう。 でも正直に話して、同情をいただいたら怒りそうな私がいる。 長く続くものであればいいのに。 そう思っても現実を知っていて。 現実はつらすぎる。
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