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どんなに痛くて苦しくて本人が望んでいても、この国には安楽死という処置はない。 痛みを止めることはモルヒネなどの薬で行うことはできる。 あとにあるものは死しかなくても、誰も殺すようなことはしてくれない。 痛みを止めて、その日を待つだけの場所が緩和ケア病棟と呼ばれる。 彼はその病棟へと移り、薬の副作用で容態が悪くなるようなこともなくなった。 一見すれば、以前よりいいようにも見えるけれど、痛みを止めているだけで。 抗がん剤を使っていないぶん、癌細胞は正常な細胞を更に加速して壊していく。 彼を死に近づけていく。 私は休めるだけ仕事を休んで、彼のそばになるべくいた。 恭太は幼稚園に通わせて、お母さんに預かってもらって。 たまに涼太さんがお母さんと一緒に恭太を連れてきてくれる。 個室しかないこの病棟の彼の部屋の窓の外には桜が咲いていた。 花火を見れるか、見れないか。 あとそれくらいの時間しかないのは、なんとなくわかっていた。 人の最期というものは悲しいもの。 それが愛した人や身内なら更に悲しいもの。 けれど、悲しんでいてばかりで、怯えてそれを見ようともしないのは、臆病で、死んでいく人の気持ちを考えていないもの。 抗がん剤治療をしているときは、お茶くらいは飲めていたのだけど、彼はもう何も口に入れてはいけない。 その体を維持する栄養は点滴の水分のみ。 唇は乾いて、ひび割れてしまう。 彼はあまり上手に動かせず、時折痙攣のする手で、唇や歯を濡らそうとしていて。 私は彼のお世話をするように、その唇を濡らしてあげる。 まだ話せるのだけど、口は乾くし、痙攣からか言葉も聞き取れないようなもので。 私は彼とあまり会話をしていない。 静かな病室を消すようにテレビをつけている。 会話をしなくても、うれしかったら笑ってくれる。 あんまりうれしくないことも笑ってくれたりするけれど、私は彼の表情を見てきたから、わかることはわかる。 彼の唇を濡らしたあと、指先で広げるように濡らして。 そのグレーの瞳を見つめる。 彼は目を細めて少し恥ずかしそうに笑ってくれる。
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