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悲しみと憤りに震えていた。今にも泣き出しそうなほど、声が弱弱しかった。事件のことを考えると、当然であった。おそらく、気丈に振る舞う方が難しいだろう。
―もういやっ!―
精神状態が乱れ、声は徐徐にヒステリックがかって来た。そう長くはもたないと判断して、私は彼女を冷静にさせるために、諭すように優しく話しかけてみた。
―私が必ず救い出してあげるわ。だからお願い、どこにいるのか教えて―
なるべく落ち着き払った低い声で、思念を送った。最初は自分の声が届いただけではなく、対話できる相手がいたことに驚いていた。しかし、徐徐に落ち着きを取り戻して、ようやく会話が出来る状態になった。
―冷たい所―
その返答に私は道路を横切り、思わず河川敷へと駆け下りた。川に指先を浸けると、春の時期にしては水温が低かった。彼女が、間違いなくここにいる筈だと私は確信した。
「人の話を聞いていたのか?いきなり走り出して一体何だ!」
どうやら私が対話している間も、彼が説明を続けていたようだ。対話をするといつもこうだ。周りの情報を遮断しなければ、雑音が入って正確に聞き取れないのだ。それは私が持つ死者の声を聴く力にある、唯一の欠点だった。
私は貴重品の入った、ショルダーバックを半ば彼の腕に押しつけて、川に飛び込んだ。冷たい水は体に突き刺さるようだった。
私はもう一度、意識を集中させた。水中で試したことはなかったが、川は汚れており、視界が悪かった。十cm先ですらよく見えないほどだ。潜水と集中を繰り返したが、簡単には辿り着けなかった。
そもそも対話しながら泳ぐような芸当は、少なくとも素人が真似して出来るものではない。私は未熟者で十分に力を使いこなせてはいなかった。
柊には強がって完全に使いこなせるようになったと、啖呵を切って辛うじて同意書に署名させた。
私のように身内と連絡を取り合えない場合は、本人の署名及び第三者の同意がなければ、遺体捜査官にはなれないのだ。
不意に当時のことを思い出してしまい、雑念が出始めると力は弱まるので、何とか集中力を維持させた。集中力が途切れた瞬間が終わりだ。次第に焦る私の耳に、ぼんやり声らしきものが届いた。
―…じゃ、ない。もっと下に―
私はさらに潜水した。よく声が届くように、きちんと聞き取れるようにただ祈る思いで声を聴いていた。
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