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 母は日傘を差しているのと、話に夢中になっているのとで、その光景が見えていないようだった。 「そうだ、一応電話しときますね」  彼はそう言って立ち止まると、携帯電話を取り出した。その時やっと母は、自分が今どこにいるのか気づいたようだった。 「あの……」  母の声は怯えていた。  彼は母を無視して、電話を耳に当てて話し始めた。 「おい、準備しとけ、今から行く」  彼は低い声でそう言って電話を切った。 「準備って?」  母は震えた声で彼に訊いた。 「飲み物の準備です」  彼は無表情で答えた。 「そんなふうには聞こえなかった……それにここ、道合ってます?」  母は開いたままの日傘を地面に置いた。母の背後には、威圧的な落書きが所狭しと描かれた、アパートの残骸があった。 「ここですよ。言ったでしょ? もうあいつら待ってますよ」 「そんな、あいつらって、あの、帰ります。ダメですこんなの」  母は私の空いている手を強く握った。その時、私は何が何だかわからず、固まっていた。 「どうしてです?」 「ごめんなさい急用ができました」  母は声を振り絞って強く言った。 「そうですか、じゃあ、終わったらちゃんと送り届けますね」 「えっ?」 「だから、この子を、無事に届けるって言ってるんです。無傷で」 「何言ってるんですか? この子も一緒に帰るんですよ!」  母は私を強く引っ張った。彼が手をつかんだまま、母のほうに私を押したので、痛みはさほどなかったが、私は「痛い」と言った。 「おい!」  彼が怒鳴った。あまりの迫力に、母は私の手を離し、後ろ向きに倒れてしまった。荷物の中身がそこら中に散らばった。 「この子は暇なんだろ? 俺があいつらのところに連れてってやるよ」  彼の言葉に母は答えなかった。地面に落ちた自分の携帯を拾って、彼を睨みつけた。 「娘を離さないと、警察呼びますよ!」  母は勝ち誇ったようだったが、彼は笑った。「どうして?」と言いながら狂ったように笑っていた。
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