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私の名を、人は『光』と呼ぶ。かつて、私は『光るの君』『光源氏』と呼ばれていた。
もう、ずっと昔の事だ。そういえば…
「紫の上、貴女は寝屋でだけ、私の名を呼んでくれましたね。恥ずかしそうに…」
隣に座る、妻に話しかける。だが、答えはない。
「紫の上?」
妻の代わりに、屋敷に仕えている、侍従(じじゅう)の君が訝しそうな顔で、私の顔を覗き込むように側に寄って来た。
「何をおっしゃっておられるのですか?紫の上様は昨年、鬼籍(きせき)に入られたではありませぬか」
「そなたこそ何を言っている。紫の上が私より先に逝く訳がないではないか。それに、ほら、そこで微笑んでいるではないか」
私は、侍従の後ろで、優しく微笑みを浮かべこちらを見つめている紫の上を指差す。
侍従は、呆れた様にため息を吐き、奇異な物でも見るような目で私を一瞥(いちべつ)したあと、何も言わず去っていった。
「全く、おかしなことを言う者もいたものだ。なぁ、紫の上」
私が言うと、妻は再び私の隣に座し、にこやかに微笑んでうなずいた。
「少し、昔語りをしよう…。貴女に出会う前の、私の事を」
夏の夜の庭の池の遣り水(やりみず)を見つめながら、私は妻の手を握る。ひんやりと冷たく、小さな手…。
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