第1章

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 君、僕は腹を切るよ。そう、腹を召すのさ。桜も散る折、頃合でもあろうしね。許婚(いいなずけ)の君を残していくのは、何とも心苦しいのだが。  理由? 聞くまでもないだろう、先の大戦。敗北の後、この界隈でおめおめと生きて帰ったのは僕ぐらいのものだ。他にもたんといるじゃありませんこと、って? 分かっていない、分かっていないよ君。  生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けること勿(なか)れ。御国の陣地で負けたなら結構、ところが僕は虜囚(とらわれ)だった。敵陣にて捕縛され、以降戦火に身を置かず――捕虜も辛いが弾に当たる心配はなかったね――のうのうとしておって、敗戦の後に帰された。  あれから半年以上経つが。今になって全く、吾(わ)が身が恥ずかしいのさ。同じ釜の飯を食った仲間も大勢死んだというのに……って、何だね急に手など握って、ちょ、痛い、痛いぞ君、それに顔、顔が近い!   何? あぁも少し声を落として落として、鼓膜が震えるばかりで何も聞こえんよ。お気になさいますな、と? 同じ釜の御飯を召せども、同じ米粒まで召しはせず。お仲間のことは不憫なれど、貴方様はこうしてご無事。わたくしはただただ嬉しゅう御座います、か。その心は嬉しくあるが、まずは手を離して。いえ離しませぬ決して、じゃなくて離して! いいから離せ、痛っ、痛たたただっ!   全く。真心込めた言葉は嬉しいが、力まで込めずともいいだろうに。ああもうそれに、唾(つばき)が唾が。目の前で鼻息と代わる代わるに飛んでくるもんで、花の嵐とはこのことかよ。ん、いや拭わずともいい、自分でやる。大体それぁ何だね、全体何でまた雑巾なぞ持ち歩いておるんだい。え、手巾(ハンケチ)? 自分で刺?した? ……そうか、うん。  兎に角(とにかく)、だ。僕は近く腹を切るよ。男の意気地だ、辛かろうとも分かっておくれ。何、君は若い。お家柄とて旧くは士族、世が世であれば御家人の息女だ。それに君は乙女だ、白百合のように清楚で、そう薔薇の如く……や、うん、清楚な、そう白薔薇の如く清らかな乙女だ。僕などより良い人が見つかるさ。この住まいも伯父に引き払ってもらうよう頼んである、君の手を煩わすことはない。
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