1人が本棚に入れています
本棚に追加
だとため息をついた。ままならないものだ。私は心のどこかではこの男と一緒に居続けるのも悪くないと思い始めたのに、こうして落とし穴があるものだ。死んでもいいと思っておきながら目の前に死が近づいてくると怖いものだ。
「構わないよ。殺すなり、犯すなり好きにすればいいじゃないさ、こんな薄汚れた身体でよければね」
もう何人の男に抱かれたかもわからない、生きていくためならこんな身体なんて道具にすぎないんだから、ゆっくりと目を閉じた。
「僕のお嫁さんになってください」
とだけ男の声が聞こえ、私の着物を脱がしはじめ男の荒い吐息がくすぐったかった。
いつか私はこの男に殺されるだろう。この男は私ではなくて、物語としての『あたし』を愛しているんだから、その物語が終われば私の命もそこで終わる。なんとなくその兆候らしきものはあった。最近の男の書く物語に登場する主人公はどいつもこいつも『あたし』だった。いつの間にか二つになった私と男に愛想良くする『あたし』の人格、きっとこの男は想像として生み出してしまったほうの人格を愛したのだ。空想の中にいる奴を好きになったと言えばわかりやすい、物書きらしい愛情表現だ。そしてそれを受け入れてしまっている私もどこか狂っているのかも……。
正式な夫婦になれはしなかった。お互いの身の上と単純に貧乏な私とこの男にはそれが一番、ふさわしいのかもと言うと、
「かもしれないね。空想の夫婦か、うん、悪くないね」
「何を悪くないと言っているか聞かないけれどね。あたしはあんたのことを好きじゃないんだよ」
「照れてるのかい?」
「照れてはいないよ。私は、私の思ったことを言っただけさ、あんたみたいなモヤシを好きになるわけじゃないんだよ」
「だったら、俄然、好きになってほしくなったよ。あ、それとあたしじゃなくて、私にしたんだね」
「それがどうかしたのさ」
「いや、私のほうが君らしくっていいと思ったんだ。うん。なんというか君とは壁がある気がしてたから」
壁、壁ねと呟いていると、男はポンッと手をうった。まるで、何かを思いついたような態度だ。ニッコリと笑って、
「今更っていうか、遅すぎるけれど、君の名前を聞いていなかったね」
聞いていなかったというか、聞かれなかったから無視していた。私も男の名前を知るつもりはかなかった。
「無いよ」
「え?」
「私に名前なんてないよ」
最初のコメントを投稿しよう!