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別に珍しいことじゃない、私のような親のいない孤児には名前なんてつけたりしないものだ。ばつの悪そうな顔をしている男にもきにするなと手を振る。抱かれた男達には適当な名前で名乗っていたけれど、それを名乗る気にはなれない。それなら名無しでいるほうがマシだ。
「うーん。じゃあ、僕が名付けていい?」
は? と、声がもれそうになった。この男はいったい何を言い出した、物書きのし過ぎでとうとうおかしくなったかと呆れていても、男はうーんと頭を捻り、私の名前の候補を並べていく。女らしい数々の名前に私は面食らう、
「よしてくれよ。私にはそういったほどこしは必要ないさ」
「ダメだよ。僕らは夫婦なんだから、だから、僕のことも名前で呼んでほしい。春水(シュンスイ)って呼んでほしいんだ」
春水と名乗った男がまっすぐ私を見つめてくる。『あたし』ではなくて私を見ている。困った、そのまっすぐな視線をそらすことなできない、春水と名を呼ぶことはないかもしれないけれど、名前はほしいと思ってしまっていて、モヤモヤとしてしまっていて、この頃にはもうある程度、字を読めるようになっていて私はある一つの名前に目がついた。
雛菊、ヒナギクと書かれた名前に目が止まった。
男、春水もそれに見ながら言う。
「雛菊だね。そういえば知ってる? 雛菊のはね。純潔らしいよ」
と言った。なぜ、そんなことを知っているという無粋なツッコミは控えるにしても、
「純潔ね、そんな言葉は私にはもっとも似合わない言葉だ」
薄汚れているんだからねと呟く。
「けれど、僕はいいと思うよ。雛菊」
とさっそく春水が私の名前を呼んでくる。半ば確定してしまっていて否定しにくくて、勝手にしなと小屋を出て、外に出た。
「なんなんだろうね。こりゃ」
安穏とした日々、痛みや苦しみからかけ離れた日常がそこにあった。崖っぷちな人生が、囲炉裏を囲って温かい飯を食うという人生に変わろうとしていた。弱肉強食の世界から抜け出していた。
いや、抜け出していたと錯覚していたのかもしれない、そんなものはすぐに瓦解する。この世は弱肉強食なんだから悪党の人生なんだから、
それらしい予兆があったわけじゃない、ただ、その日は来客なんてめったに来ない小屋に来客があった日で、
「…………え?」
春水が来客の抜きはなった刀で首を斬られた日だった。
網笠を目深に被った着物の男は刀を振るって血を落とす。
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