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岡崎博物館の方の話では、
「戦後、軍議違反にも関わらず、直政が処罰されていない所をみると、家康は、徳川の軍勢でこの天下分け目の戦いを始める事が出来て嬉しかったんじゃないか。」
これは、直政も、我ら徳川の手で開戦したいという思いと、家康の思いが通じ合っていたという解釈です。
一般に言われる所で言いますと、
「戦後、直政が処罰されていない事から、家康と直政の間で話が通っており、先駆けを認めていた。」
という物です。
これが、直政が言い出したことなのか、家康の命令なのかは、言及されていません。
確かに、本当の所は、解らないのですから、直政が勝手にやったことだと言う人も居れば、家康の命令だと言う人も居て当然です。
そこで、私の思う直政の先駆けについて述べたいと思います。
私は、家康の命令でやったと思うのです。
冷静に考えれば、後詰の隊が、言い訳までして先鋒隊の前まで行き敵に発砲、それが、眼立ちたがりのトンでも武将ならまだしも、分別ある伊井直政なのですから、命令が有ってやったと言う方が自然だと思うのです。
ですが、この先駆けは、あまり重要視されていないようで、家康の命令でという
定説に至っていない事が逆に不思議だなと私は思います。
私は、この直政の先駆けこそが、関ヶ原を語る上で最重要ポイントだと考えます。
それは、なぜか?
家康が、小山評定、以来積み上げて来たものが、実を結んだ瞬間が、直政が鉄砲を打って合戦が始まった時だと思うのです。
将棋で言うなら、「詰み」に至った状態です。
「え?・・まだ合戦が始まっただけで、勝っていませんが・・・?」
と思う方も多く居ると思います。
関ヶ原の戦いと言うと、家康も三成もどちらが勝つか最後まで判らなかった戦いですから。
あえて言い換えるなら、東軍、西軍、という意味では、どちらが勝つか最後まで判らない戦いだと思います。
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