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家康は天下を視野に入れて、徳川の勢力拡大を狙っていたことは、確実だと思います。
天下へ行けるとこまで行って、掴めそうだったら掴もうか?というスタンスだったのだと私は、思います。が、解りづらいので、これを天下を狙っていたと書かせていただきます。
話がそれましたが、関ヶ原の戦いは、豊臣家臣対豊臣家臣の戦いです。
そこで天下を狙っていた(勢力拡大を狙っていた)家康は、何を考えて居たかです。
「この戦いで豊臣政権の力が半分になる。」
私は、家康がこう考えて居たのでないかと思うのです。
勝ったのであれば、家康の力は天下に王手という所まで行きます。
負けたとしたらどうか?
東軍諸将の改易は、免れないでしょう。
それは、どうゆう事か?豊臣政権における豊臣恩顧の大名が半分居なくなる事を意味します。
ですがそこで、三成派が自分たちの息が掛かった者を置き換えるだけだから、豊臣勢力が半分にはならないのでは?
と、言うのが一般論かもしれませんが、私は少々違います。
家康派の東軍諸将は、小山評定で家康に味方する事を決めます。
なぜ小山まで行ったのか?
それは、上杉討伐のためです。
豊臣家の大老徳川家康が、豊臣家の名のもとに、逆賊上杉家を討伐しに行ったのです。
天下を治めている豊臣家の討伐軍ですから、豊臣家の軍事最高部隊です。
正確に豊臣家の最強軍か?という所ではないかもしれませんが、
よく、三成たち官僚派と、軍事派の対立と有るように、家康が連れていたのは、軍事派の諸将であったことは、事実です。
言うなれば、豊臣政権の盾と槍が有るなら槍を司る少々です。
東軍が負けてこの諸将が改易になったとするなら、豊臣政権の軍事力は低下する
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