第1章 記憶は遠く、日々は無意識に

5/5
前へ
/5ページ
次へ
「マジで引き受けるの?あんたさ、どんなドMな訳? ほんと、馬鹿だわ、馬鹿。つける薬もないやつね。」 繁華街にある、観光名所にもなっている電波塔の下に位置するビアガーデンで、サエはグビグビと喉を鳴らして生ビールを飲み下した後に、シオリに向かってそう言った。 口の回りには白い泡がふわふわと乗っており、大ジョッキにはしっかりとルージュの跡が残っていた。 ちびちびとハイボールのグラスを舐めるように飲みながら、己を睨む相手から視線を外すと、テーブルの上にあるサラダのオリーブを箸先で転がす。 サエは人差し指の付け根で口元を拭うと、銀に光るシガーケースから一本取りだし、火を付けていた。 「引き受けた以上は、ちゃんとやるけどさ」 そう言って、後頭部できっちりとまとめていた髪を下ろすと、サエは本当に綺麗だ。 というより、魅惑的ーー女のシオリから見ても、とてもセクシーだった。 「ねー、職場では下ろさないの?」 シオリの的はずれな質問に、再度眼鏡の奥の目が細くなり、眉間にシワが寄った。 何を言う訳でもなかったが、吐き出した煙が、あからさまにシオリの方に流れてきたのは、間違いなくわざとだろう。 「ナツミとリョウヘイくんが、ね。 ーー私は、シオリとよりは安心だけど」 「何よ。別れた時も言ってたけどさ。 そんなに私ってひどい女かなぁ…」 オリーブを口にすると、酸味とも塩味ともつかない風味が広がる。 その間に、サエは二杯目の珍しい焼酎のロックを頼み終えていた。 新しいグラスが運ばれるまで、二人とも黙ったままだった。たまにサエが口を開いたかと思うと、何も言わずに、また黙る。 焼酎のグラスを受け取ったサエは、一つため息をつき、おもむろに話し始めた。 「ーーシオリは、リョウヘイくんのこと、認めてなかったでしょ」 その言葉にムッとし、反論のために開いた口は、しかし何も言い返すことができなかった。 「ダメなところもあったとは、思う。リョウヘイくん、頼りなかったし。 ーでもさ、今がダメだから、先もダメじゃないじゃない。 シオリは、こうって決めたらそれがずっと真実だから。 リョウヘイくんのいらない面倒まで見てた気がする」 サエは、本当によく見ていたんだーー そう気がついただけだった。 自分ですら忘れていた、記憶の隅に追いやっていた、リョウヘイとの思い出。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加