第1章 記憶は遠く、日々は無意識に

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「男でも最近増えてきて、楽しいですよ。意外と器用…って、自分で言うのもなんですけど」 言葉通り、シオリの指先には、可憐なマーガレットが花を咲かせていた。自分では、きっとこんな風に書くことはできないだろう。 左右の手を入れ替え、ジャスミンの香りのハンドクリームでマッサージをしてもらう間に、美容師が髪のチェックに来て、シャンプー台へと促される。 シャンプー後にはドライヤーをかけられ、髪の長さを整えられた。その間、ネイルを眺めながら、自分の手ではないような、くすぐったい気持ちを覚えた。 他人と話すのは苦手だが、美しく彩られたキャンバスのような指先を見ると、気分が高揚する。 されるがままに全てが終わると、店内から見える空は赤く染まっていた。時計は、16時を指している。入店したのが昼前だから、かなりの時間が経っていた。 手入れもせず伸ばしっぱなしだった髪は、ほどよく色が抜け、首もとから胸元へと緩くウェーブがかかっている。前髪は、少し切りすぎたかもしれない。眉の辺りで切りそろえた毛先を軽く引っ張る。 会計を済ませると、担当の美容師とともに、トオノが顔を出し、 「またいらしてくださいね」 と声をかけてきた。誤魔化すように笑って、店を後にすると、グッと背を伸ばした。 座りっぱなしで、体が固まってしまっている。 「遠野さん、か…」 真新しいメンバーズカードには、今日の担当者の名前が書かれていた。古いものは、とっくにどこかにいってしまった。 ヘア・山村 ネイル・遠野 と書かれたカードを財布に押し込み、自宅マンションへと人波にのって歩き出すーー。
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