張角挙兵と漢の衰退

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光武帝以来約160年間大陸統一を保持してきた後漢だが、宦官の実力者"十常侍"が国の実権を握ると政治腐敗が進み、彼らの専横を邪魔する優秀な政治家は都から遠く離れた地方に遠ざけられ、彼らに賄賂を贈った者が国の中心を担う有り様であった。 賄賂政治は中央から地方にまで広がり、地方の統治を任されていた太守は自らの保身のために十常侍の派遣した監査官に莫大な額の賄賂を渡さなければいけなくなり、その分農民から取り立てる税を増やした。 重税に苦しむ農民に追い討ちをかけるように、天候不純と蝗害により畑が荒らされ大陸各地で飢饉が起こり、重税を取り止めない国に対して農民は不満を募らせ、国の統治が行き届いていない大陸南部に逃亡する者が出始める。 優秀な政治家・軍の指揮官もそれに例外ではなく、国の威信は日に日に薄れていき、秦末の英雄たちの大志も虚しく漢の滅亡は避けられない状況にあった。 そして184年、崋北・鉅鹿出身の"大賢領師"張角の大反乱を機に、大陸中央は大戦乱の戦場と化す。 張角は当初、十常侍の賄賂政治を利用し部下をスパイとして国の中央に潜ませ、自ら挙兵すると同時に内部からも反乱を起こすという計画を予定していたが、十常侍にそれが露呈すると予定より数年早く崋北にて挙兵。 救世主とも呼ぶべき張角の元には一人また一人と崋北の農民が集まっていき、その動きは大陸中部にも広がりを見せ、史上かつてないほどの大反乱となった。 世に言う"黄巾の乱"である。 張角の軍勢は主に農民で構成され、兵士一人一人が頭に黄色の巾を巻いていたことから、"黄巾軍"と呼ばれた。 黄巾軍の勢いは凄まじく、短期間で大陸中部、すなわち中原の許・沛など数十ともいえる数の城を落としていき、漢の都・洛陽へ一歩、また一歩と近づいていた。 舞台は184年、崋北。 黄河より北側に位置する崋北・業でも、張角配下の軍勢が官軍と交戦中で、官軍は苦戦していた。 飢饉や重税などで不満を募らせた農民の集まりである張角の黄巾兵は強く、対して官軍は政治腐敗により有能な人物がより地方へ遠ざけられ、やはり十常侍に賄賂を贈る者が軍の指揮官になったからだ。 特に崋北での官軍の戦果は酷いもので、黄巾兵に成す術もなく業・平原の広大な領土を奪われることとなった。
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