張角挙兵と漢の衰退

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そうした絶望的状況の中、崋北・北平で張角配下・程 遠志を相手する官軍の廬植は、左北平に駐屯する漢の幽州刺史・劉焉とその部下鄒靖らと連携し、業方面から攻めてくる黄巾軍を一万にも満たない軍勢でなんとか防いでいた。 各方面の官軍が黄巾軍の勢いに圧倒される中、盧植はそこに黄巾軍の弱点を見いだしたのである。 盧植はまず黄巾軍の士気の高さと進軍の早さに着目した。 黄巾軍の大部分は漢の政治に不満を持った農民で構成されている。 だからこそ、この戦いに対する農民の執念は凄まじく、死をも恐れず漢の正規軍に攻めかかる。 黄巾軍は、中原方面だけでも10万以上の大軍勢であるにも関わらず、そうした農民の特性を生かした強行軍とも言える電光石火の突撃で沛・許を瞬く間に占領し、無計画にその先にある洛陽へと前線を押しに押し上げてきた。 そうすると、黄巾軍が前線を押し上げる度に黄巾軍の士気は高まっていくが、それに反比例するように兵糧・武器の補給が追い付かなくなり、その分1つの軍勢としての統率も失われていくのである。 ましてや、黄巾軍は指揮官から一兵卒までもともとただの農民であり、兵としての訓練は誰も受けたことがなく、軍としての統率力は皆無で実戦の経験すらない。 なので、黄巾軍は侵略した先々で農民の畑でも官軍の食料庫でも何でも荒らして食料を確保し兵に分け与えてなんとか軍勢としての形を保っている有り様で、組織としての連携やまとまりが無かった。 盧植はそうした点から、固く防衛線を張り、長期戦に持ち込めば黄巾軍の食糧の宛てを無くすことができ、黄巾軍の勢いを落とせると考えた。 そのためには、第一に黄巾軍の動向を事前に知る、間者を敵の内部に送る必要があり、簡単にそれはできた。 何故なら、黄巾軍が農民だからである。 如何に張角やその直近の部下に隙が無かろうが、彼らから遠く離れた地位である軍の指揮官は大抵何の教養も無い農民なので、農民に扮装するかあるいは農民を間者として雇えば簡単だった。 そうして間者を送り込む事に成功した盧植は、黄巾軍の行く先々に土塁を築きそこに兵を置き、一月もの間彼らに攻めかかる隙を与えず任地の崋北・北平を守り抜いた。 盧植の考え通り、業から北平に攻め入った黄巾軍は一月の攻勢で激しく勢いを削ぎ逃亡する兵が激増し、6万いた黄巾軍は2万まで数を減らした。
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