第1章

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井草の仕事は大きくも小さくもない印刷会社の営業である。 営業部には6人在籍しているが、各々が個人の仕事をするのでそこに存在するのは縦の繋がりだけだ。話に花を咲かせ、実を結ぶことなどない先輩後輩上司部下の関係。しかし、それはそれで居心地がよかった。仕事は人生ではない、井草はそう思っているのだから深い干渉を持たぬことは心がやすらぐのである。 仕事の最中は何も考えていない。 ただ秒針が分針を、分針が時針を追い抜いていくのを待っているだけだった。 この3年間、社会人になってからはその繰り返しだった。 ただ過ぎていく。 学生時代を時針とするならば今は秒針だ軽い時間を素早く刻んでいく。あの重く意味のあるゆっくりな時とは種類が違っていた。 井草はそんな人間だった。 周りからはクール、と思われてはいたが、その実、彼は無気力なだけである。 仕事になんの希望ももっていないし、向上心もない。馬鹿で結構だよ、と夏目漱石の「こころ」を読んで口に出していたこともある。 生きることにいちいち理由なんてないんだ。 今日も彼の1日は終る。 そして、始まるのだ。「彼」が。
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