手打ち小屋  川口祐海

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僕の母は、四国の香川で生まれた。 讃岐うどんが大好きだった。 だから成人して上京してからは、関東のうどんの不味さに辟易したそうだ。 そういう心境だったから── うどんを打っていた父に惹かれ、結婚したのだろう。 よくある話だと、今では思う。 最初のうちはよかった。 店は繁盛し、僕が生まれ、家庭は忙しさと明るさに包まれていた。 店から離れた手打ち小屋(母がそう呼んでいた)では、 父と母が交替でいつもうどんを打っていた。 ──ぱあん ぱあん 商店街からはずれた、ドブ川のそば。 窓の無い、薄暗い物置のような部屋から── いつもその音が聞こえていた。 ──ぱあん ぱあん すぐ外で遊んでいたから、僕は今でもその音をおぼえている。 手打ち小屋から出てきた母の、僕を呼ぶ声を──満面の笑顔を、おぼえている。 けれども、いつからだろう。 何の前触れもなく、気づけば東京にうどんブームが到来していた。 はじめのころは、父の店も儲かったらしい。 でもすぐにチェーン店が押し寄せ、またたく間に客足は遠のいていった。 安くて美味い大量生産に、父のこだわりは太刀打ちできなかった。 そうして店が潰れると、 たったそれだけで──何もかもが変わった。 うどん一筋だった人間を、ほかの職はいっさい受け付けてくれなかった。 父はやむなく日雇いを渡り歩き、帰宅しては酒をあびた。 母は殴られ、僕も殴られた。 そうした日々が、ずっと続いた。
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