一、池の主

9/17
前へ
/205ページ
次へ
結界は、そうとは悟られないように作られていたので、千里眼のない彼女に分かるはずはないのだが……。 どうも、嫌な予感がする、と思った瞬間、あやめの声が届いた。 彼女が心から彼を呼ぶ声は、例えどれほど離れていようとも、彼に届く。 距離を無効にし、空間を超え、必ず彼に届くのだ。 それは一体、如何なる力の為せる業なのか、彼も知らない。 しかし、一度彼女の声が彼に届けば。 そしてその声に、彼の応える意思があれば、千里の距離も、文字通り一瞬で越えられるのだ。 『はち、助けて!』 “あやめ!” 応えた瞬間、既に彼の身体は、誰よりも大切な者の元にあった。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 主の池に戻ったあやめが呼びかける。 「主様~、戻りました~!ごめんなさい。私では、分かりませんでした。でも」 言いかけた彼女は、途中で言葉を止めた。 池の真ん中から、ボコボコと大きな泡がいくつも立ち、水面が揺れたと思ったら、ゆらりと巨大な影が浮き上がり、直後に盛大な水飛沫を上げ姿を見せたのは、あやめの二倍はあろうかという大鯰だった。 「わー、主様ですよね?元の姿に戻れたんですか?」 どうしてかは分からないが、取り敢えず良かったと喜ぶと、池の真ん中にいた主は、泳いで彼女がいる縁までやって来た。 “うむ、ようやってくれた。そなたが結界を解いてくれたお陰で、本来の姿を取り戻す事ができた” 結界は、なかったはずだ。 首を傾げるあやめの前で、主は池から身を乗り出し、こう言った。 “そうじゃ 。あれは昔、儂から力を奪う為、村人達が旅の修験者に頼んで作らせた、地脈の気を堰き止める為の結界だったのじゃ。そなたがそれを壊してくれたお陰で、力を取り戻す事ができた” 「え」 鯰の言葉に不穏なものを感じ、思わず半歩後退った彼女に、目を弧に細め笑みの形を作った鯰は、続けてこう言った。 “礼を言うぞ。これで、思う存分人を喰らう事ができる。先ずはそなたからじゃ!” あーんと口を開け、 一呑みにしようと鯰が襲いかかる。 「きゃあああぁ!は、はちー!」 頭を抱え、座り込んだあやめは、誰よりも信頼している相手の名を呼び、助けを求めた。 今正に、大鯰が彼女を呑み込まんとする寸前。 “誰が……” 頭の中に響く馴染んだ声に、あやめがぱっと顔を輝かせ、狼の姿を仰ぎ見る。 「はち!」 “何っ!?”
/205ページ

最初のコメントを投稿しよう!

130人が本棚に入れています
本棚に追加