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結界は、そうとは悟られないように作られていたので、千里眼のない彼女に分かるはずはないのだが……。
どうも、嫌な予感がする、と思った瞬間、あやめの声が届いた。
彼女が心から彼を呼ぶ声は、例えどれほど離れていようとも、彼に届く。
距離を無効にし、空間を超え、必ず彼に届くのだ。
それは一体、如何なる力の為せる業なのか、彼も知らない。
しかし、一度彼女の声が彼に届けば。
そしてその声に、彼の応える意思があれば、千里の距離も、文字通り一瞬で越えられるのだ。
『はち、助けて!』
“あやめ!”
応えた瞬間、既に彼の身体は、誰よりも大切な者の元にあった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
主の池に戻ったあやめが呼びかける。
「主様~、戻りました~!ごめんなさい。私では、分かりませんでした。でも」
言いかけた彼女は、途中で言葉を止めた。
池の真ん中から、ボコボコと大きな泡がいくつも立ち、水面が揺れたと思ったら、ゆらりと巨大な影が浮き上がり、直後に盛大な水飛沫を上げ姿を見せたのは、あやめの二倍はあろうかという大鯰だった。
「わー、主様ですよね?元の姿に戻れたんですか?」
どうしてかは分からないが、取り敢えず良かったと喜ぶと、池の真ん中にいた主は、泳いで彼女がいる縁までやって来た。
“うむ、ようやってくれた。そなたが結界を解いてくれたお陰で、本来の姿を取り戻す事ができた”
結界は、なかったはずだ。
首を傾げるあやめの前で、主は池から身を乗り出し、こう言った。
“そうじゃ 。あれは昔、儂から力を奪う為、村人達が旅の修験者に頼んで作らせた、地脈の気を堰き止める為の結界だったのじゃ。そなたがそれを壊してくれたお陰で、力を取り戻す事ができた”
「え」
鯰の言葉に不穏なものを感じ、思わず半歩後退った彼女に、目を弧に細め笑みの形を作った鯰は、続けてこう言った。
“礼を言うぞ。これで、思う存分人を喰らう事ができる。先ずはそなたからじゃ!”
あーんと口を開け、 一呑みにしようと鯰が襲いかかる。
「きゃあああぁ!は、はちー!」
頭を抱え、座り込んだあやめは、誰よりも信頼している相手の名を呼び、助けを求めた。
今正に、大鯰が彼女を呑み込まんとする寸前。
“誰が……”
頭の中に響く馴染んだ声に、あやめがぱっと顔を輝かせ、狼の姿を仰ぎ見る。
「はち!」
“何っ!?”
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