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雪解けの頃。
人里の遥か上空を、一頭の白銀の狼が翔けて行く。
風を切り、春先の柔らかな陽射しに被毛を煌めかせ、地を駆けるが如く飛翔する様は、美しいの一言に尽きるだろう。
しかし、狼は空を飛ばない。
それだけでも、十二分に異様な光景だと言えるのに、天翔ける狼の可笑しなところは、それだけではなかった。
まず、普通の狼よりも、格段に大きな体躯である事が挙げられる。
成長した大人の狼が、ほんの子供に見えるくらいには、その狼は巨大であり、被毛も若干長かった。
そして何故か、首には唐草模様の大きな風呂敷が括られており、こんもりとしたその中には、何やらごちゃごちゃと物が詰められているようだった。
もっと可笑しいのは、その狼の背に娘が一人ちょこんと座っており、恐れるでもなく、楽しそうに眼下に広がる雄大な景色を眺めていることだ。
歳の頃は、十四、五。
人の世では、カラスの濡れ羽色、烏羽玉の髪と褒め称えられるであろう艶やかな黒髪を、後ろでゆったりと一つに束ね、風にたなびかせている。
それから、長い睫毛に縁取られた大きな眼。
潤んだ黒目がちの瞳に翳りはなく、どこまでも澄んだ輝きを放っている。
雪のように白い肌と、ほんのり朱に染まる頬、薄桃色の花弁のような唇のその娘は、十人中、最低でも九人は美しいと思うだろう。
だが、何故に狼の背──しかもこんなに巨大な──に、人が?
見る者がいれば、何から何まで奇っ怪に映ったに違いない、あからさまに異様な光景は、しかし誰の目にも触れることはなく、だから、誰も知らないままであった。
不意に、眼下を眺めていた娘の視線が、風呂敷に包まれた荷物の向こうの、狼の後頭部辺りに向けられる。
「ねえ、はちー、今度は、どこへ行くのー?」
愛らしい唇から零れた声は、鈴を転がすという形容がぴったりで、彼女の容姿に似つかわしく、やはり愛らしいものであった。
だが、その言葉は狼に向けられたもので、娘はまるで、答えが返って来るのが当たり前のように話しかけている。
すると、どうだろう。
驚いたことに、『はち』と呼ばれたその狼は、顔は前を向いたままで、ちらりと視線だけを後方へ向け、すぐにそれを戻すと、
“さあ、どうするかな”
と答えを返して来た。
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