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そんな中に、楓は現れた。
呼名されるとまっすぐに手を上げて一礼し、飛び込み台の後ろに立った。
それは、僕の知る楓の姿からは想像もできないほど強く堂々としていた。
会場の声援なんてまるで気にも留めず、ゴーグルをぴっちりはめて飛び込み台に上がった楓。
飛び込みの姿勢を保った時には、背筋に悪寒が走るほどあいつは闘争心をむき出しにしていた。
あの瞬間。
選手がピタリとその動きを止め息をのむその一瞬だけ会場の声援が一気に静まる。
恐怖にも似た、音のない興奮。
あんな経験は先にも後にもあれ一回きりだ。
スタートの合図とともにしなやかに水の中に吸い込まれていく楓の姿がやけに鮮明に目に映り、気付いたときにはもう水の中で横一線に並んで先を競っていた。
何物も寄せ付けようとしないあの強い泳ぎが脳裏によみがえる。
心の中で楓のことだけを考え、気付けば声に出していたあの瞬間。
『頑張れ、楓!』という自分の声が、記憶の中で響いていた。
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